厚い雲の間から朝焼けが拡がりだしたのは、5時を過ぎてからだった。操舵室に備え付けられた船首の映像は、それまで暗かったからである。6時に一旦投錨したようで、7時の朝食に備えたのであろう。朝食だけは1、2回の区別がないので、7時10分には席はほぼ埋まった。東北なまりのあるご夫妻が前に座った。
「ダンスをするのに、フォーマルウエアの上着を脱いで踊ってはマナー違反だと書かれてあったので、私は普通の日に踊ることにしました。やっぱ、着飾ったご婦人方に失礼じゃからな」いきなりこう切り出して、にやりとされた。あなたの本を読みましたよ、と目で語ってくれている。「お読み下さって有り難う御座います」思わず頭を下げた。時々、ダンスタイムのドルフィンホールを5階席から覗くのだが、相変わらず、ダンス教室の面々が大きく両手を拡げて踊っている。いや、踊っているというより、練習をしている。楽しい奮起というよりは、夜まで特訓という空気が漂っている。夫婦が楽しめるカジュアルなダンスムードを期待するが、それはない。そんなことを互いにしばらく話して朝食は終わった。
食後、船が動いた。狭い水路を慎重にくぐり抜け、港内に入った。スクリューの回転で、海底の土砂が舞い上がり、たちまち茶色になっていく。かなりの浅瀬と判る。入港に際しては水深が最大の心配事だったことが理解できた。
港の左手は、中国にでも来たような長方形の険岩、ソケース・ロックが沖を睨み付け、その下部は、うっそうとした濃い緑の中に白い十字が覗いている。そのまた下には、数軒のバンガローがへばりついている。右手は、漁港らしいのどかな風景で、我々の現地コーディネーターであろう、4人ほどの男達が、所作なく接岸をじっと見守っている。このポンペイ港に日本の客船が寄港したのは初めてだという。歴史的な日になった。
最初の寄港地ポンペイは、僕らにはポナペの名前のほうが親しみやすい。まだ、我が家の息子達が小学校に上がる前、カミサンがこのポナペに三人で着任したかも知れないのだ。当時、ポナペで日本語の教師を募集していた。カミサンは、外国人に日本語を教えるデュプロマを所得していた。応募したいと言うので、行ってこいと答えた。ところが、受け入れ側の担当者が、子供連れであっても、ご主人が同伴でなければ、島の男達に言い寄られること間違いない。家庭の安泰を保証しかねる。何度も何度も言われたそうで、日本に夫を置いての赴任を反対されたという。つまり日本語教師の条件は、単身者が適していたのだ。そのポナペに今回、我々は非常に興味があった。仮に着任していたとしたら。島の何処で、カミサン達はどういう生活をしていたのだろうかと。ポンペイは、スペイン統治からドイツ時代にポナペとなり、日本、米国を経て独立したことで、元のポンペイに戻した。日本からは1日1便、グアム経由で12時間を要する。
8時半から船内で入国手続きが行われている。半日ツアーコースの参加者は、1階のシアターに集合とのこと。部屋の向かいだ。ツアー参加者は150名いた。バスの号車と同じドルフィンバッジに、350mlのナチュラルウオーターを受け取る。出口には10本ほどの虫除けスプレイが置かれている。それを手足にかけて、随時下船していく。降りた先では、歓迎の花輪が頭に載せられる。生花が細かく手編されてあるのを見て、年配のご夫人方が嬉しそうな顔を交わす。
ポンペイを訪れるのはマリーンスポーツ客が殆どで、観光客はこれまで訪れなかったそうだ。だから、これほどに大勢の観光客を運ぶバスはない。ツアーバスとなるのは、現地の学校から借用するスクールバスだった。子供の座席で狭いが容赦してほしいと、説明があった。我々を船に戻した後は、再び学童を迎えに行くのだ。1日観光が組めない理由が判った。3号車だけはワゴンだった。平均年齢70歳の小学生が、黄色いバスに揺られて1時間先のケプロイの滝とナン・マドールの遺跡に向かうのだ。
海と空の港がある島の北から、バスは海岸線を南東に下る。空港の先で2階建ての細長い日本大使館を左に見て、海岸通りを南下する。ここが銀座通りだという。コロニア地区には、大きな病院が道路を挟んで二軒建っていた。もし着任していたら、息子達がお世話になったんだろうなと思うと、有り難い気がしてくるから不思議だ。
大統領よりも6地区の女系首長の意見のほうが重視される国で、人口は4万人。日本人は80名。10歳以下が50%を占め、60歳以上は5%に満たない。最近は、パンやタロ芋から米食に移行している。米は、豪州や米国からの輸入だそうだ。男性の平均寿命が70歳、女性が68歳。殆どが糖尿病になっていく。
学校を通過するとき、赤いシャツが何人も手を振ってくれた。学童の制服は、真っ赤なTシャツだった。「パセレーリェ」が「こんにちは」「さよなら」で、「パラーマ」が「有り難う」の意味だ。スクールバスを貸してくれて、パラーマ!!学校では日本語を教えているらしく、また日本人有志による日本語塾もあるそうだ。
スクールバスは、その名前に似合わないほどの猛スピードで、島の道を飛ばす。体が左右に大きく揺られ、声が上がる。曲がりくねった道を70kは出しているだろう。ジャングルを縫ったアスファルトの道は、2005年に完成したという。島を一周して80km。中央分離帯に黄色いラインが敷かれた道路は、日本のODA資金で造られたのだと説明された。側溝を造ったことが日本人の工事の丁寧さを物語る。島内で喜ばれている点だそうだ。
我々の現地ガイドは、秋永みどりさん。日本人のお母さんは1号車のガイド役を引き受けてくれている。3号車のガイドも従兄弟の秋永エミオさん。現地では、秋永一家と言われている。
ポンペイは、「ミクロネシアの花の島」と言われる一方で、「雨の島」とも言われている。東京の降雨量が1500ミリリットルに対して、この島は年間300日、5000ミリリットル降るからだ。世界最降雨量を記録する島である。その上、火山噴火が地形に起伏を創るため、滝が生まれる。
1時間後、6カ所中で最大のケプロイの滝の入口に着く。個人の土地を分け入るためか、入場料は3$。ゴツゴツした岩の道を歩く。高齢のご婦人が足を滑らせた。途中の泥道で靴裏に付着した泥が岩場をさらに滑りやすくしている。初日に捻挫でもしたら寄港地で下船できないぞと、互いに声を掛けながら、足取りも慎重になる。入口から滝壺まで10分かかった。高さ20m、横幅30mの水量豊富な、しぶきで涼やかになるはずが、じりじり照りつける強い紫外線で、むしろ汗ばむ。
道路を挟んだ向かいの道をバスが入って停まった。此処も、個人が所有する土地を入る。$7ドル。カヤックなどで海路から入ると3$だそうだ。そこからは、珊瑚を敷き詰めた細い道と小橋を渡って歩いた。左右に海面に根を張って緑をなす若いマングローブがある。徐々に海に近づいている。秋永エミオさんが時折、上手い日本語で説明してくれる。「マングローブガニガ、イマス」パチリ。
「ノニノ木デス」見上げると、柚子のような緑の球が小枝にぶら下がっている。本物を初めて見た。パチリ。
見物し終わった人とすれ違うが妙だ。ズボンの裾が濡れていない。膝上まで海に入ると聞かされていたので、皆水着を下に着て来ているが、そうした姿も見られない。長い人の列の先に、海面とボートが見え隠れした。
巾5m程の対岸へはボートで全員を渡してくれているようだ。どこから借用してきたのだろうか、スタッフの気遣いを嬉しく思った。蘇君がウエストまで浸かりながらボートを押してくれていた。
島の南東部にあるチャムエン島という浅瀬に、かの有名な海上都市の遺跡「ナン・マドール遺跡」がある。そもそも、「ポン(PHON)」「ペイ(PEI)」こそは、「石を高くに積み上げた祭壇」という意味だそうだから、この遺跡を見ずしてポンペイを語る事なかれ、である。
「ナン・マドール」の意味は、「ハザマの地」という意味で、人間界と霊界の間に海がそれを隔てているということらしい。この海上都市は、1500mと600mの
長方形の海域にあり、玄武岩で井桁に積み上げられた92の建造物が残されている。500年から1500年の間に建設され、王家の墓から、住居、召使いや守備隊、客人の住居、そして葬儀や貯蔵の島から地下牢まである。「首長の口の中」と名付けられた「ナン・ドワース」は、王の墓で、今でも威厳のある造りは形を残している。切り出されたのか、それとも火山活動によるものか、六角形の重い玄武岩は、井桁に組んで15段ほどの塀を張り巡らせ、珊瑚を敷き詰め、その中で工事をしたと見られている。海水パンツ姿のガイドの声に聞き覚えのある声がする。人の輪を覗き込んだら、一等航海士の番留さんの姿があった。初寄港地である此処を企画した番留さんは、先乗りしていた。
その番留さんに訊いた。六角形の棒状の岩は、大きいモノで16トンはあるという。高く積み上げるには、ロープを使ったのではないか。ココナツ・ロープは非常に強いものだそうだ。文字のない王朝で、死期が近づくと、王は次の王に口伝で政を伝えていったと言う。水中に潜ると、大きな円形のアーチがあるそうだ。鯛やヒラメが舞い踊るのも嘘ではないと。インド、日本、中国に伝わる「竜宮伝説」の源がどうやら此処だそうだ。
地震も津波も蛇もいない島だと、番留さんは、終の棲家にこの島を挙げるほどだ。電力はディーゼルと風力で作り、24時間使えると秋永さん。収穫されたタロ芋が吊されていたので、パチリ。カミサンは、椰子のジュースを飲みたいと1$を払った。
滝壺に生息していると言われた鰻と同じ大鰻が池にいた。鰻は、この土地の人たちには神同様の存在で、食にはしない。地区によっては人間の生まれ変わりだとして、家族のように大切に扱われている。
マリアナ海域で産卵して日本に辿り着く頃に都合良く成長していると聞いたことがある。魚偏に曼と書く鰻。曼は長いという意味だが、日本でも埼玉県三郷市の延命寺には、鰻の絵馬があり、昔、洪水に襲われた時、鰻が縄のように繋がって人の命を救ったという言い伝えがあり、菩薩の使いとして、そこでは今も信仰されているらしい。名古屋人としては、ひつまぶしという単語を口にするだけで、涎が出てきてしまう。あのタレが減塩の僕にはいけないものになっている。食べるなら、白焼きに山葵でないとカミサンが睨む。テムズ川の下町、イースト・エンドには、鰻を食べさせる店が集まっているそうで、パセリソースをかけた鰻の煮込みや鰻ゼリー、鰻パイが名物料理だと聞く。炭火で焼く日本に足して、ぶつ切りを煮る英国。ここポンペイでは、鰻を食べる国民をどう思っているのだろうか。
昼食は14時になった。なんと、ポンペイで「鰻丼」が出るとは、島民も船内食まではご存じない。日本人は美味そうに神様をパクついた。素麺やカレーを選択した人は、島民に敬意を表した人たちだ。
食後は、随時ワゴン車が町のコミュニティ広場に連れだしてくれるという。即席のバザールを町の人たちが、にっぽん丸の船客のために開いてくれているからだ。
広場で待ち受けてくれたのは、約1年ぶりに会った藤川君の顔だった。11日から先乗りしていたとか。ポナペの切手から、胡椒の実、貝殻細工が売られていた。海洋動物のカービングは、フィージーから移民してきた人の手によるモノだと言う。
ノニ100%の瓶詰め(10$)は、便秘に効くのでとカミサンに買う。記念のTシャツを買おうにも、XXLが当たり前のように吊されていて、日本人には買うサイズが全くない。人だかりしていたのは、胡椒の佃煮(1袋5$)だった。いかにもこの土地に住み着いた日本人の手によるモノだ。今年から日本でも売り出すそうだ。酒のつまみにと買う人が多かった。二次三次とワゴン車が船客を運んでくる。入れ替わって帰船する。
港湾事情により、出港を18時から17時に繰り上げるというアナウンスが出た。船客の確認次第、出港とのこと。藤川君は乗船し、番留さんはボートに乗って、水深の浅い港内をにっぽん丸が無事出るまで見届けてくれた。
昼寝の間に、高木さんから電話があったとカミサンが教えてくれた。夕食前に7階のリドデッキ横で、「サカオ」を飲もうと集合がかかったのだ。濁り酒にも似た「サカオ」や「カバ」は、腎臓の悪い僕には不向きなので、遅れて上がる。ビールの空き瓶に入った、珈琲色の「サカオ」があった。カミサンも高木さんも高嵜さんも野村さんも、痺れていた。ガイド役をしてくれた松永さんに、高木さんが「サカオ」をタクシーで届けて貰ったという。僕は、麦焼酎を頂く。早くも、ドアの向こう、プールサイドではカラオケタイムになっていた。
夕食は、この3夫婦と野村女史の7人編成で、テーブルを作ってもらった。ひょうんな話から「末期癌」の話になると、高木さんがぼそっと話し出した。
「僕の近所に、牧巌さんという県会議員さんがおってね、選挙んとき、自分の名前を連呼するんだわ。『マツキ、ガンです!!マツキ、ガンです!マツキガンです!』って」
じゃあ、同情票を呼び込んだねと混ぜ返すと、「その人、まあ、おもしろいことに、薬剤師だったんだがね」笑いが輪唱のように波打った。末期癌に聞こえたんだが、彼は96歳まで長命だったというオチで、どっと笑いが高まった。辺りは既に2組の客だけになっていた。
ネプチューンバーに21時半から22時半までという約束で落ち合う。高木さんが「サカオ」を森田純子バーテンダーに寄贈する。カウンターの止まり木にポナペ8年滞在経験の稲積君が居た。どこから手に入れたのかと問われて、秋永さんからだと答えると、秋永一族の酒なら、安心していただくという。胡椒の根を潰して擦って乾燥させるが、秋永一族なら、虫は入っていないから安心ですよと口に含む。ワインのように、口内に液体を回し、シビレさせてから飲む。鎮静剤だという。祭りのときに飲むので興奮剤かと思い違いをしていたのは僕。後から来た物知りの長坂さんによれば、酋長との会議に、議論が興奮しないよう、気を鎮める効果も狙っているとのこと。
「ところで、奥さんはポナペの仕事を辞めたのね?」とカウンターの稲積君に投げると、困った顔をしはじめた。「あの……ぼくら、今度、結婚するんです、船の上で……」
咄嗟に意味が解った。彼の明るくなった理由も判った。モーレア島海域でデッキウエディングをするという。おめでとう!とグラスを上げた。ついでながら、お母さんはお元気ですかと訊いてみた。ついに、人工透析になったとのこと。あれから4年が経っていた。僕にもいつか来るのだと心した。
高嵜さんは南十字星を見るために4階のプロムナードデッキに、僕は、メールをチェックしにライブラリーへ。東京は未だモパスの航海日誌は未だ流れていないそうだ。
23時40分、部屋に戻る。洗濯室が混んでいて、洗い終わりまで本を読むとカミサンは横になった。最初の寄港地、ポナペには二組の夫婦にまつわる話があったのだ。
この船の上では、移動大型プラネタリュームが星を瞬かせていることだろう。しばらく、またデッキゴルフが続く航海日だ。
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