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2007年7月

2007年7月27日 (金)

07.05.18 メラネシアへ4

早くに眠りに入ったので、5時に眼が覚めた。シャワーを浴びる。八点鍾で起きたのは、カミサンだった。

『南緯13°09′、東経173°44′、フィジーまで650kの位置です。速力16ノット、時速30k、天候は晴れ、南西7mの風、気温27℃、水温29.7℃、波の高さ約1.5 から2m。明朝530分にパイロットを乗せ、リーフの間を入り、8時に着岸します。フィジー諸島には島が320とも800とも言われるが、その110島で人が住んでいます。

ラウトカには36000人、30km離れた南のナンディには1万人、南東の首都スバには77000人。全人口は88万人。フィジアンが50%、インド人が45%、その他が5%。年間平均25℃、雨量は年2500ml。5月から11月が乾期で、明日の最高気温は27℃、最低が24℃だそうです』

 

朝食後は、リーグ戦残り試合。優勝が決まった以上は、消化試合だと苦笑いする者、いや準優勝がかかっているのだと語気を荒くする者、どちらにせよ3組のビリには成りたくないと顔には描いてある。我々と菅谷組との対決だが、リンク・コンディションは時間を追ってドンドン悪くなっていった。P103036 予想されたとはいえ、乾いている面と濡れ始めた面を通過しようとするコースに、何度も大波乱が起きた。終盤戦は、野村、菅谷と高嵜、萩原の戦いになった。結果は我々が負けてビリとなった。

試合を見守っていたメンバーは、自分たちもプレイがしたくて仕方がない。ならばと、通常戦を始めたが、ゲームが3番ホール辺りに進行している最中に雨足が更に強くなり、ミズスマシ状態では距離感が掴めないし、足を滑られて捻挫してはと、中断することにした。

ライブラリーでのメールチェック後は、部屋で高木さんのDVD試写に専念した。見終わった結果を昼食後に、高木夫妻に話した。06年世界一周クルーズの余るところなく入れ込んだDVD,実に6枚分についてである。二人が撮った写真を入れ混ぜ、敏枝さんが編集したというもの。編集ソフトのせいか、横パン(静止画像の景色を横に移動させる)の多用が目を疲れさせる。特に、キール運河を通航する川岸の風景が、船の進む方向と逆に流れてしまっている点が残念だった。他にはスーパーインポーズしたタイトル内容の統一感等々意見を述べさせてもらった。初めての編集にしては、膨大な量を詰め込んだ努力賞モノである。義妹から飛鳥の船友がナレーションも自分で入れたDVDを何種類も見せて貰ったが、70歳を超えた方々が編集したという。孫に見せたい一心でソフトを使いこなす熱心さには頭が下がる。いずれ劣らず半年がかりの労作であった。

 

1415分からは、森拓也さんの「珊瑚礁」講義。森さんは、鳥羽の水族館で世界初、ジュゴンの長期飼育を成功させた海洋学者であり、また世界でも類を見ない和歌山の「海老と蟹の水族館」館長でもある。四日市生まれで、パラオの生物学研究所にもいたことがある。海洋ジャーナリストというか、海洋カメラマン、ダイバー、そして地元局のラジオパーソナリティでもある。いわゆるイケメンで話が巧いということで、女性船客にファンが多いのだ。カミサンはそちらに出掛けた。

僕は、映画「ポリネシアンの伝説」が1545分から始まるが、1645分からは、デッキゴルフ表彰式飲み会がネプチューンバーで行われる。映画は1717分終了のため、諦める。

5階のネプチューンバーに入る。時間外のため貸し切りである。今クルーズでは、高嵜さんが事務局長、野村さんが事務局長秘書役をしてくれている。最年長メンバー、菅谷さんの乾杯の音頭で始まった。あらためて、自己紹介となった。そもそも、クルーズの船客の大半は、リタイアーである。肩書きを外した個人となって乗り合わせている。年齢と出身地、または大まかな現住所以外、一切が明らかにしないまま、付き合っている。丁度、スポーツクラブのサウナか、プールでの姿に似ている。衣を脱いで裸の付き合いといったところか。こうした共通の仲間で親しくなってから、個人のバックボーンが語られる。
  塩野さん、鬼界さん、草浦さんの軽妙な挨拶で、次第に和やかな空気が出て来た。今回のクルーズもデッキゴルフのメンバーは、やっぱり独特にいい。いい。

Cimg0022 草浦さんは、09年にデッキゴルフを覚えた方だった。それによると、海軍時代にも「デッキゴルフ」という言葉を耳にしたことがあったという。商船三井客船が発祥であるかどうかを再度考査する必要もある。鬼界さんは、03年の世界一周クルーズで、ル・アーブルからの区間乗りでデッキゴルフをしたことが判った。あの時、僕が太平洋岸ではなく、地中海海域から始めていれば、もっと早くに知り合えたのだ。「デッキゴルフがしたいから、航海日の長い南洋クルーズを選んだんです」彼女はそう言った。ああ、こう言い切る人が他にもいたのだ。

優勝チームには、商品が手渡された。「ホールイン・ワイン」という献金制を昨年から実施し始めた。各ホールの中心円にストレートで入ったパックがそれで、お見事!と賞賛される代わりに、懇親会の飲み代、ワイン1200円分を提供するというもの。ゴルフの巧い菅谷さんがやはり最多本数となってくる。意図的に外すのが松田史郎さん。

リーグ戦は帰国までに2回ある!と優勝を逸した誰かが叫んだ。鬼界さんの口から、ハワイで下船してしまうことが初めて知らされた。ご主人との約束で、ホノルルから飛んで帰るのだという。「夫を置いてきたの、また、乗せてもらえるように帰りますね」。今夕の席に彼女が1万円分のポイント券が寄付されていたと高嵜さんが発表した。自販機で買い占めてきた缶ビールで、かなり良いご機嫌になっているメンバーが、雄叫びを上げた。バケツに盛り上がっていた缶ビールやウーロン茶の山が消えて、ポンペイで買った胡椒の佃煮も無くなった。このまま、夕食を食べないの?という奥方達の声に、男共が立ち上がった。1回目の夕食時間を控えている菅谷さんや鬼界さんは、早々に引き上げていた。


 夕食は、高嵜夫妻と右側の丸テーブル。高嵜廣子さん、ゾロ目の誕生日である。白ワインで祝杯となった。白川船長が同席するかも知れないと席を空けていたが、都合で来られなくなったらしい。高嵜さんの蘊蓄とジョークで話は尽きなかった。

就寝前に5階のライブラリーに上がった。試みに、一日分の航海日誌を打ち込んでみた。横に原稿を置きながら打つ、A44枚の分量は、かなり面倒だ。USBさえ使えれば、区もないのにと思いながら、途中書きで部屋に戻る。明日は、20数年ぶりのフィジーだ。確か、長男が小学5年生の時に連れて行ったのではなかったか。今回は4人ではなくカミサンと二人連れだ。

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07.05.17 メラネシアへ3

今朝も八点鍾の予告で起きた。航海士の説明によると、「鐘」を叩く以前は、ボーイによる聖歌で時刻を知らされたという。なんとのんびりとしたものだったか。我々なら、またうとうとと眠りについてしまいそうだ。ところが、今朝の打者はどうしたのか、なかなか八点鍾が叩かれない。間があって後、8回鐘が鳴った。

『今日も曇り空、小雨の混じった天気です。南緯7°32′、東経160°37′、ソロモン諸島の東、約1000kmの地点をフィジーに向かっております。速力183ノット、時速34k、天候は全天曇り、東北東の風5m、気温℃、水温℃、波の高さ約15m。風は弱く、正に赤道無風帯といって良い状態です。明後日のラウトカは、たいへん良い天気だそうです。晴れで最高気温27℃、最低気温24℃、湿度は57%という過ごしやすい天気の見込みです。

汽笛の信号「短音」は約1秒間、「長音」は46秒間、そして「長々音」は約10秒間です。出港時の長々音は港の人たちに「ありがとう、さようなら」と言うあいさつです。短音1回は右転、2回は左転、3回は後進。注意喚起は、短音を何度も鳴らします。穏やかな海です。本日もゆっくりと船内でお過ごしください。』

 

便秘気味だったので、リドデッキでのオートヴァイブに立つ。少しでも刺激になればいいがと、10分腹部を揺すらす。東京では、これ、サラリーマンに人気で、退社時には込んでいる。10分間500円。此処ではタダ。

デッキゴルフは下位決定戦が行われると思い、後部デッキに出てみる。雨が吹き込んでいる。ジャッジ役の高嵜さんが、本日は試合延期で、有志による通常のゲーム日にしたと言う。無駄だとは思いながらも、4人ほどで、一斉に水を掃く。

そして高嵜、萩原、鬼界に松田、菅谷、松田サエ子の6人でスタートするが、なかなか最初の1番ホールがクリアできない。ショットする度に呆れるやら驚くやらで、大爆笑。敵味方とも、なんと40分もかかって抜け出たが、ほとほと苛ついた。頭で考える半分もパックが滑ってくれない。技術ではない運だ、と言いながら、ミスの続発で笑いが絶えない。1015分の時間制限制で、最後は我々が勝った。久しぶりの勝ちである。そしてルールの確認か、追加という宿題が残った。「ポンドに入ったパックを打ちだした際、コーナーをオーバーランした自玉は、生き球かどうか」である。これまでのデッキゴルフルールブック22条には規定されていないようだ。

 

汗ばんだ体のまま、ドルフィンホールで片山さんの講義「伝統的な暮らしぶり」を聴く。

発掘調査時代のもので、今は随分変わったと言うことを前提に話が始まった。ポリネシアンの気質は、所有権の意識が無く、他人のモノも自分の物、困ったら人に助けられる。明日は明日の風が吹く、と時間の観念も薄く、おおざっぱな日程となる。「Aita  peapea(アイタピアピア)!」、よっしゃあ、気にしないきにしない、いいよ!と、大様な気楽さがある。しかし、Tapu(タブーの原語)という禁止事項の取り決めも多く、それで互いのルールを作ってきた。他人の鶏は絞めてはならない、ある方の影は踏まない、他人の浜で漁をしていけない等々がそれだ。100人ほどの小島では、タプを作って互いに護り合うことで生活が保たれていた。タヒチで多く見かけるTapuは、「立ち入り禁止」の意味であるから注意するように、と、片山先生。

入植したヨーロッパ人から金属道具を得るまでは、永く石器時代が続いたが、この石器時代、知恵を発揮せざるを得ないことから、誰もがゼネラリストになったという。(確かに、自分のことは自分で出来ないと干上がってしまうわけだ。)ノーモアキリキリという大コウモリは食べ尽くされ、亀も食べた後に、骨が道具にされた。そうした点では、鯨の骨は大きく太く強いためか、ある部位の骨は槌になったりした骨器が残されていた。黒真珠貝の母貝から釣り針を作っていた。ココヤシが衣食住の重要な財産であることはよく知られているが、成長するまでにイチとかヌとか、名前が変わっていく。割った中の白いツブという部分は、大事な離乳食にされたそうだ。コプラという部分は、石鹸やオイルになった。自然に落下する実は危険なので、登っては予め落としておくのだそうだ。Img_0158_1

11食とはいえ、マークサス島では芋が栽培できず、3月から5月にかけて、パンノキの実を砕いて乾燥させたモノをこねて食べていたが、ポリネシアでの食料の大半は、タロ芋である。日本人が食する子芋ではなく、親芋を食べるのである。ニュージーランド、イースター島では、日本で言うサツマイモの種類を食していた。タロ芋の出来ない乾燥した地域で食べるサツマイモは、中南米を原産地とし、ハワイ、タヒチ、サモア、フィジーから、日本、ニュージーランド、遠くはアフリカまで及んだ。なぜ5000kmもの距離にある南米のサツマイモがポリネシアに来たかの理由は、カヌーのオーバーランだったという調査結果がある。つまり、2000年前には、太平洋を横断するポリネシアンがいたということである。

ゴツゴツとしたヤムイモという種類があるが、フィジアンの主食で、これは、日本で言うところの自然薯、山芋である。タコはポリネシアンが大好きでハレの場には、豚同様、供される。豚の丸焼きなどウム料理に使用する焼き石は、大変重要な家財道具である。低い島の珊瑚の石は役立たず、高い島にある石は高温に耐える。このため、焼き石は嫁入り道具のひとつとされてきた。家畜で言えば、犬も鶏もカヌーで一緒に来たと言うが、犬はペットと食用に分けられていた。鶏は、10mのプルメリアの木で休むほどに飛べていた。馬は2300年前にヨーロッパ人が持ち込んだが、現地語では「台地を走るブタ」と呼ばれ、羊は「歯のあるブタ」と言われていた。

酒というモノはポリネシアには一切なかったという。ミクロネシアにあるヤシ酒は、美味くない上に悪酔いするものですよ、と、話は、発掘作業での経験談に流れていった。

マンゴやパパイヤは、色とりどりの花と同じように、1819世紀にヨーロッパ人が持ち込んだものである。ポリネシアンの入れ墨は、数が多いほど位の高い人だ。家族は多産系で、自分が知っている最大は21人の子沢山だったと、片山先生。

天候に関してだが、南洋の台風は年に12回ほどで、全くない年がある住みやすい海域なんですよ、と今日の講義を締めた。受講生になった気分で懸命にとれたメモは、ここまでだった。

 

ヴァイブの効果はあらたかだった。帰りのトイレで、下腹部がいつものようにすっきりした。ライブラリーでメールのチェックをした。後は、することもなく部屋に入る。カミサンは、「何でもビンゴ」の二回目の挑戦に、向かいのシアターに出ていった。

スタッフ高嵜君の軽妙な司会が始まっていた。P1000319_1与えられたテーマから、その種類を書いてマスを埋める。マイクを差し出された人は、なんらかの名前を読み上げる。 該当する人は自分のマスの中を丸で囲む。あとは、ビンゴの様式で進む。 先着5名には、カジノ券が与えられる。船内では、あらゆる機会を創りだし、カジノ券で参加して、カジノ券を倍増させるゲームが行われる。せっせせっせとそれに参加してはカジノ券を増やしている方がいる。P1000313今回は、僕らは未だ一度も行っていない。部屋に戻って、また昼寝をする。

 

18時に宮本さんがノック。山縣さんのメールが、間違いで自分に送られてきたので、プリントアウトしてドアの下に差し込みますとのこと。山縣さんからのメールでは、日本デッキゴルフ協会設立の気運に刺激を受けて、「国際姫路ロイヤルクラシック・陸デッキゴルフクラブ」として、市の公民館に働きかけて、デッキゴルフ愛好者を募ろうとビラを作ることにしたという。山縣さんらしい文面だった。夕食前のミネハハのコンサートはパスして、航海日誌を打つ。

 

夕食に遅れたと慌てて上がったが、また時間を間違えていた。まだオープンしたばかりだった。行列の後に続いた。ジュン君の担当席に再び案内された。二人だけの席だった。煩わしさのない良さでもあり、侘びしさでもあり、二人で白ワインとビールで乾杯。和食を食べた。今晩のカミサンは、セミインフォーマルの雰囲気があるので、写真をパチリ。山縣さんのメールプリントを高嵜さんに見せ、帰りがけに稲積夫妻に名刺を渡した。彼らの住所は、やはり変わっていた。お母様とは、04年に運転免許証の更新時、鵜沼で会ったきりだったが、彼の話によると、その翌年から人工透析になり、体力がぐんと落ちたという。痒み止めにステロイド軟膏を塗っていたが、幸い懇意にしていたポナペの獣医さんが帰国して、体に合う漢方薬の紹介を得たことで、今は治まっているとのこと。

  

P1000323P1000322

2115分からは、星座教室がデッキで行われた。クルーズ慣れた人は、バスタオルを手にして現れる。敷いて寝ころぶためである。ウッドデッキ一杯に人が拡がった。用意された折りたたみの椅子は、さすがに満席である。デッキの照明がすべて落とされた。真っ暗の上空に、星がきらめいている。 説明役の航海士は、強力なレーザービームが、夜空のスクリーンに発せられる。これまでの懐中電灯とは違い、光のP1000333届き方が解りやすい。03年の世界一周クルーズの時は、通り抜ける人工衛星が見えた。今夜は軌道時間ではないのか、見えなかったが、南十字星と偽南十字星は、くっりと見えた。満天の星空とはこういうものだ。見やすい位置に船は徐々に進路を変えてくれている。クルーズの醍醐味だ。ライブ・プラネタリュームで涼やかなひとときを終えた。

 

この後は、サロン「海」でマジックショーだが、部屋に戻った。

高木さんのDVDを、野村さんの航海日誌をまだ見終わっていない・・・・・。

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07.05.16 メラネシアへ2

7時に眼が覚めた。二度寝をやめて、パソコンを叩く。今朝は、リーグ戦の初日となる。我々のメンバーに新人が加わったので、少し早くに特訓をしようと言い合ったのだから、遅れるわけにはいかない。左舷の空は、黒い雲が低く垂れ込み、やがて水平線はぼやけて霧で掻き消された。船窓は雫が点々と付き始めた。デッキゴルフのコンディションは、パックがミズスマシ状態になるのか。

ナビ画面で見る航跡は、どの島に遮られることもない大海原を真っ直ぐに、ひたすら東南東に航行している。181ノット。インド洋のような、湖面を走る海は今回望めないのだろうか。大きな揺りかごに乗っているような揺れが続いている。

『今朝はスコールの多い空模様です。赤道付近に空気が渦を巻き、低気圧の元となる状態を創りあげています。昨夜2304分に東経163°44′、赤道を通過して南半球に入りました。南緯2°03′、西経165°10′。速力18ノット、時速33k、天候は曇り、南西の風11m、気温255℃、水温30.3℃、波の高さは約15m。昨夜のダイニングでのフィリピンクルーのバロン・タガログという衣装、如何でしたでしょうか。・・・・本日も航海日です』

白川船長は、公募した八点鍾の打者名を今日も知らせなかった。06年中山船長は毎朝の打者の名前を公表し、音色をあれこれ褒め言葉で評したが、打ち鳴らしに操舵室へ上がった船客にとっては、それが嬉しかったはず。なにか、あれから問題でもあったのだろうか。

朝食では、いつものようにオートミールとトマトジュース、ヨーグルト、それに野菜ビーンズのスープを加えた。塩分を気にしてスープは少なめにした。

 

Img_0318_1

今朝は、リーグ戦の初回。A対B、B対C。スコールが気になるが、ともかく決行である。集まったメンバーは、手慣れた仕草で自主的に水捌け作業を分担した。今朝は、新しく参加するメンバーが緊張しているらしい。彼らは、14番間の短距離以外は未経験だからだ。デッキの左右を全面的に使ってパックを打つのは力が要る。距離感も掴めないからだ。

ところが、ギッチョン。試合を開始すると、今朝がデビューの高木保夫さんは長距離もパックが延びる、延びる。ニューカマー(実際は、いつの間にか、一軍、二軍とか、ファームとか言っているのだ)に負けじと、レギュラーの塩野さんも頑張る。

Img_0331_516Img_033616 戦局は終盤に、A組は高嵜、萩原が残り、B組の松田、塩野、鬼界との戦いになったが、B三人の知術にあえなく敗れ去った。二回戦は、高嵜さんが講演に出席するということで、僕がジャッジ役となった。

菅谷さん率いる松田サエ子、野村道子、草浦のC組は、床のコンディションが馴染めなかったせいか、かなり出遅れてしまった。松田B組が全員、5番ホールを通過して権利玉となったことで、更に形勢が不利になり、早い時間に勝負あった。これで、Bの松田組が優勝を確定した。明日は、準優勝?あるいは最下位決定戦というA対Cである。

 

シャワーを浴びて、メールのチェックに5階へ上がる。アサヒの吉岡さんから、やはり20周年の集まりを今夏にすると。蓼科から帰京した東さんからは、水本カメラマンへのエールが、山縣さんからは、陸デッキゴルフに励むと。山本沙織君からは、東北新社、読広両社への門を順調に開けている旨がそれぞれ入っていた。船内のPCにUSBが使えるならば、ソーホーへ原稿を送信して同時掲載が出来るのだが、マウスの口を代用すると、今度はPCのパッドが効かない。といって4枚分の航海日誌原稿を直に毎日打ち込む根気はない。

 

昼食はセンターテーブルで、高嵜、松田両夫妻と一緒。帰国後の神戸ジャズフェスティバルへの誘いと、番組で知った芦屋高台の電信柱のない居住区、アシヤ・ヒルズに話が咲いた。

 

カミサンがプレイするつもりだったシャッフルボードは、デッキが雨で中止となった。他の教室は船内で催されているのだが、どれにも通っていないから、ノーアクティビティ・デーである。14時から18時まですることもない。今朝も30分短縮されている。とにかく眠い。またよく眠れるのだ。老体になったのか、時差の関係か。TV映画は「寅さん」だし、シアターも「自転車泥棒」だ。長い昼寝をした。

 

今夕は「チャイニーズ・ナイト」とある。インド系が経済を握っているフィジーに向かっているのだから、「インディ・ナイト」で、インド料理というほうが相応しいのにと思うのだが、料理の多彩さを誇る中華料理となったのだろうか。航路に合わせて「○○ナイト」が設けられているのだが、世界一周クルーズでも、妙なところで「チャイニーズ・ナイト」となる。にっぽん丸の不思議のひとつ。

エントランスホールでは今夜も、スタッフがチャイニーズ・ウエアで記念写真をご一緒にと待っている。

 Img_0368_1Img_0359 Img_0356_1

貼り紙が出ていた。赤道祭りの出演者募集が始まったようだ。レストランの入口には、爆竹が吊され、正面にはマジパンで雑伎団のデコレーションが施され、中央の柱には、赤い幕が四方に張り巡らされ、中でもチーフのウエイトレスは、赤い中国服を着て、雰囲気を盛り立ててくれていた。昔ほどに、チャイナドレスを着込んだ船客は多くなかった。高嵜夫妻と一緒に、左側の丸テーブル席に案内された。Img_0343 中華料理は基本的に醤油味系である。 それを避けて点心類を選ぼうと、料理の前に出た。ところが、コンポーネントの上には白いシートがあるだけで、点心は既に無かった。「チャイニーズ・ナイト」なのに、なぜか、鮨のコーナーがある56人のシェフが握ってくれる横に、いつものように行列が出来ていた。小皿に載るだけ載せてテーブルに戻った。Img_0347_1我々のテーImg_0350ブルにカメラマンの水本君が加わった。彼に東さんからのエールメールを伝えた。彼は、06年のニューヨーク寄港時に船上を旋回していた、 あのヘリから撮影していたそうだ。 

紹興酒を二杯、日本茶を一杯、エスプレッソを一杯、アイスクリームを一個。ミセス高嵜の巧みな誘い水で、カミサンが書いているらしい小説の話になった。息子達には読ませたそうだが、僕は一度も目にしていない。Img_0365 食事を終えて、水本君を挟んでの記念写真を蘇君がシャッターを押してくれた。二言三言話している内に、蘇君が結婚していたことを知る。おめでとう!

部屋に戻って、シャワーを浴びて、パジャマ姿になった。食っちゃ寝の1日だった。あ、デッキゴルフでは完敗の日でもあった。寝て明日にスイッチ、スイッチ!!

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07.05.15 メラネシアへ1

6時に眼が覚めたが、二度寝。やはり、八点鍾で起床することになってしまった。

『北緯3°37‘、東経160°43’、速力185ノット、時速34k、天候は晴れ、東北東9mの風、気温28℃、水温30℃、波の高さ約2m。昨日のツアーは如何だったでしょうか、桟橋の昼の温度は325℃でした。

にっぽん丸は1518日の4日間、再び島の見えない大洋航海となります。19日の06:00にはフィジーのラウトカ港外、08:00に着岸予定でございます。15日深夜から16日早朝の間に、赤道を南に通過いたします。また、16日早朝と、17日早朝には時計を30分進めます。日本とフィジーの時差は3時間です。本日から4日間、航海日となります。どうかにっぽん丸船上でゆっくりとお過ごしください

朝食では、いつものようにオートミールとトマトジュース、ヨーグルト、それに野菜のカレー煮を小皿に取った。

P1000294 天気の良い撮影日和だ。デッキゴルフの前に、高嵜さんをモデルにして数種類のショットポーズを撮り終えた。ルールブックの整備とその解説のための写真を撮ることが、今回の僕の宿題でもあったからだ。

さて、今日の組み合わせは、なんと松田、工藤、鬼界、工藤、高嵜のリーダークラスに頭脳の草浦という強力メンバーが敵に回った。これに対する我々は、菅谷、松田サエ子、塩野という4名。勝つためには先攻逃げ切りの策しかないと互いに言い合ってスタートした。この策が実現して、各自が最終ホールを早め早めにホームゴールをして、あと一人、あと一人と喜んだ。Img_2258 塩野さんが上がるだけになった。敵は3番ホールに未だ高嵜、草浦、松田、4番に工藤、松田が滞留していたため、充分逃げ切れると考えた。ところが、劣勢を挽回しようと、本気になったベテランの連係プレイで、いつしか全員が5番を通過して、ホームに文字通り滑り込んできた。その間、ゴールをはやる塩野さんが敵に近づき、情け容赦なく場外に弾き出されて、休みを強いられている中、次々とホームをクリアされてしまった。塩野さんを置き去りにして上がってしまった痛恨の作戦負けだった。申し訳ないことをしてしまった。

暑い。Tシャツはびっしょりと汗で濡れた。明日からは、「赤道通過記念戦」と称して、第1回リーグ戦が始まる。事務局長をしてくれている高嵜さんは、早くもその商品を売店で買い占めたそうだ。

空は高く、紫外線は強く、砕ける波は白く光る。南洋の海は360度見渡す限り、水平線だけ。島影は当分眼に入らない。P1000443 ただただ、ナウル島に向かって南下しながら航走。次の寄港地フィジーは、オーストラリアのケアンズの右横の位置する海域にある。日本人が経営するホテルのあるマナ島以外、フィジーを訪れる多くがオーストラリアからの観光客であるのも頷ける。フィジーから見れば一番近い国である。

 

昼食は、天ぷら盛りそばという簡素なモノだった。高齢者のためだろうか、ひとつまみでしかない。量が少ない。これでは腹が減りそうなので、ダブルで頼んだ。

 

高嵜さんが早々と、表彰式飲み会の場所を1816時半からサロン「海」でと、交渉決定してくれた。また、創ってくれたあみだくじを引いて、組み合わせを発表した。3組で行いたいので、14時のデッキゴルフ教室(これを我々は、誰言うことなく、「ファーム」と言っている)に通う、我々の仲間に頼み込んだ。結果として、A組は、萩原、高嵜、工藤、ミセス高木。B組は、松田、塩野、鬼界、高木。C組が、菅谷、草浦、ミセス松田、野村。こういったバランスのいい対決となった。

 

14時からは部屋のテレビで、長編映画3時間の「スパイ・ソルゲ」を観た。劇場公開を見逃していた篠田正浩が引退を表明した最後の監督作だ。構想10年、制作費20億とか言われた話題作だった。銀座4丁目の路面電車時代を見事に再現させたことでCGが話題になった映画だが、この技術で一気に時代は昭和の日本を描けると日本映画界が自信を持ったように思う。その後、ロボットと白組というCM制作プロダクションが撮った「三丁目の夕日・ALLWAYS」は、国内の映画賞をかっさらった。本木雅弘主演はさておき、お茶を引いていたお騒がせタレント、葉月里緒奈がお情け起用されていたが、彼女が容姿に違えて、やはり大根だと言うことが良く判った。日独の最高機密をソ連に送ったと言われる太平洋戦争集結7ヶ月前の実在国際スパイ事件だった。

 

食事の前にメインショーがあるのだが、わざわざドルフィン・ホールに出掛けなくとも、部屋のテレビ中継で視聴できる。女性にとっては、シャワーを浴びたあとに化粧を急がなくてもいいし、落ち着いて夕食に臨めるので有り難い。「ウインド・グルーブ」のコンサートがステージで始まった。諏訪光風のギター、奥野のパーカッション、村上のピアノ。しかし、ドルフィン・ホールでというよりも、サロン「海」レベル。出掛けるほどではなかった。

本日のドレスコードは、2回目のインフォーマルデー。1930分には2階エントランスホールに上がってしまった。周囲に誰も顔見知りはいなかった。ままよと、平さんの案内で右奥の席へ座る。フィリピン・クルーの女性は正装姿だった。06年の世界一周クルーズにはなかった新しいコスチュームだ。真紅の大きな花柄が、なかなか華やかだ。

 

カミサンは白ワインを、僕は赤を飲んだところに、高嵜夫妻が長谷川機関長を伴って同席しますよと座った。お陰様で、インフォーマルらしい夕食になった。白服のクルーが同席した時は、飲み物がサービスされるらしいことを世界一周クルーズで知った。今夜も、機関長がワインをご馳走しますからの言葉で、白ワインから始まり赤まで楽しんだ。高嵜さんの軽妙な質問が機関長から多くの面白い話を引き出してくれた。Img_0298 機関長の、日本船籍での外国人雇用問題から、高嵜さんの、神戸大学の卒業生の就職先、僕が「オンライン・男の隠れ家」コラムに書いた35万トン新造船「かぐや姫」計画の話題、それに東さんから薦められているという、英国河川の2世帯用個人クルーズを予定しているという高嵜夫妻の話が佳境に入った。みんなが耳を傾けて、興味津々聞き入っていたのだが、既にレストランの中には我々だけだった。スタッフは遠巻きにして片付けるのを待ってくれている。ご馳走様、と一礼。次回を約して立ち上がる。

出口で、高木夫妻と野村女史に会う。明日のデッキゴルフリーグ戦、忘れずに9時の参加を強く要請して別れる。川野チーフパーサーが近づいてきて、瀬戸相談役との会食を次回のインフォーマルデーにしましょう、と打診され、宜しくお願いしますと返した。そして、和田希公子さんにも、伝えて置いてくださいと頼んでおいた。

今晩のサロン「海」での落語は、パスして部屋に帰る。

2304分、赤道を通過した。では眠ろう。

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2007年7月22日 (日)

07.05.14 ポンペイ寄港

  厚い雲の間から朝焼けが拡がりだしたのは、5時を過ぎてからだった。操舵室に備え付けられた船首の映像は、それまで暗かったからである。6時に一旦投錨したようで、7時の朝食に備えたのであろう。朝食だけは12回の区別がないので、710分には席はほぼ埋まった。東北なまりのあるご夫妻が前に座った。

「ダンスをするのに、フォーマルウエアの上着を脱いで踊ってはマナー違反だと書かれてあったので、私は普通の日に踊ることにしました。やっぱ、着飾ったご婦人方に失礼じゃからな」いきなりこう切り出して、にやりとされた。あなたの本を読みましたよ、と目で語ってくれている。「お読み下さって有り難う御座います」思わず頭を下げた。時々、ダンスタイムのドルフィンホールを5階席から覗くのだが、相変わらず、ダンス教室の面々が大きく両手を拡げて踊っている。いや、踊っているというより、練習をしている。楽しい奮起というよりは、夜まで特訓という空気が漂っている。夫婦が楽しめるカジュアルなダンスムードを期待するが、それはない。そんなことを互いにしばらく話して朝食は終わった。

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食後、船が動いた。狭い水路を慎重にくぐり抜け、港内に入った。スクリューの回転で、海底の土砂が舞い上がり、たちまち茶色になっていく。かなりの浅瀬と判る。入港に際しては水深が最大の心配事だったことが理解できた。

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港の左手は、中国にでも来たような長方形の険岩、ソケース・ロックが沖を睨み付け、その下部は、うっそうとした濃い緑の中に白い十字が覗いている。そのまた下には、数軒のバンガローがへばりついている。右手は、漁港らしいのどかな風景で、我々の現地コーディネーターであろう、4人ほどの男達が、所作なく接岸をじっと見守っている。このポンペイ港に日本の客船が寄港したのは初めてだという。歴史的な日になった。

 

最初の寄港地ポンペイは、僕らにはポナペの名前のほうが親しみやすい。まだ、我が家の息子達が小学校に上がる前、カミサンがこのポナペに三人で着任したかも知れないのだ。当時、ポナペで日本語の教師を募集していた。カミサンは、外国人に日本語を教えるデュプロマを所得していた。応募したいと言うので、行ってこいと答えた。ところが、受け入れ側の担当者が、子供連れであっても、ご主人が同伴でなければ、島の男達に言い寄られること間違いない。家庭の安泰を保証しかねる。何度も何度も言われたそうで、日本に夫を置いての赴任を反対されたという。つまり日本語教師の条件は、単身者が適していたのだ。そのポナペに今回、我々は非常に興味があった。仮に着任していたとしたら。島の何処で、カミサン達はどういう生活をしていたのだろうかと。ポンペイは、スペイン統治からドイツ時代にポナペとなり、日本、米国を経て独立したことで、元のポンペイに戻した。日本からは11便、グアム経由で12時間を要する。

 

8時半から船内で入国手続きが行われている。半日ツアーコースの参加者は、1階のシアターに集合とのこと。部屋の向かいだ。ツアー参加者は150名いた。バスの号車と同じドルフィンバッジに、350mlのナチュラルウオーターを受け取る。出口には10本ほどの虫除けスプレイが置かれている。それを手足にかけて、随時下船していく。降りた先では、歓迎の花輪が頭に載せられる。生花が細かく手編されてあるのを見て、年配のご夫人方が嬉しそうな顔を交わす。

P1000260 P1000213_1 ポンペイを訪れるのはマリーンスポーツ客が殆どで、観光客はこれまで訪れなかったそうだ。だから、これほどに大勢の観光客を運ぶバスはない。ツアーバスとなるのは、現地の学校から借用するスクールバスだった。子供の座席で狭いが容赦してほしいと、説明があった。我々を船に戻した後は、再び学童を迎えに行くのだ。1日観光が組めない理由が判った。3号車だけはワゴンだった。平均年齢70歳の小学生が、黄色いバスに揺られて1時間先のケプロイの滝とナン・マドールの遺跡に向かうのだ。

海と空の港がある島の北から、バスは海岸線を南東に下る。空港の先で2階建ての細長い日本大使館を左に見て、海岸通りを南下する。ここが銀座通りだという。コロニア地区には、大きな病院が道路を挟んで二軒建っていた。もし着任していたら、息子達がお世話になったんだろうなと思うと、有り難い気がしてくるから不思議だ。P1030895

大統領よりも6地区の女系首長の意見のほうが重視される国で、人口は4万人。日本人は80名。10歳以下が50%を占め、60歳以上は5%に満たない。最近は、パンやタロ芋から米食に移行している。米は、豪州や米国からの輸入だそうだ。男性の平均寿命が70歳、女性が68歳。殆どが糖尿病になっていく。

学校を通過するとき、赤いシャツが何人も手を振ってくれた。学童の制服は、真っ赤なTシャツだった。「パセレーリェ」が「こんにちは」「さよなら」で、「パラーマ」が「有り難う」の意味だ。スクールバスを貸してくれて、パラーマ!!学校では日本語を教えているらしく、また日本人有志による日本語塾もあるそうだ。

スクールバスは、その名前に似合わないほどの猛スピードで、島の道を飛ばす。体が左右に大きく揺られ、声が上がる。曲がりくねった道を70kは出しているだろう。ジャングルを縫ったアスファルトの道は、2005年に完成したという。島を一周して80km。中央分離帯に黄色いラインが敷かれた道路は、日本のODA資金で造られたのだと説明された。側溝を造ったことが日本人の工事の丁寧さを物語る。島内で喜ばれている点だそうだ。

我々の現地ガイドは、秋永みどりさん。日本人のお母さんは1号車のガイド役を引き受けてくれている。3号車のガイドも従兄弟の秋永エミオさん。現地では、秋永一家と言われている。

ポンペイは、「ミクロネシアの花の島」と言われる一方で、「雨の島」とも言われている。東京の降雨量が1500ミリリットルに対して、この島は年間300日、5000ミリリットル降るからだ。世界最降雨量を記録する島である。その上、火山噴火が地形に起伏を創るため、滝が生まれる。P1000223 1時間後、6カ所中で最大のケプロイの滝の入口に着く。個人の土地を分け入るためか、入場料は3$。ゴツゴツした岩の道を歩く。高齢のご婦人が足を滑らせた。途中の泥道で靴裏に付着した泥が岩場をさらに滑りやすくしている。初日に捻挫でもしたら寄港地で下船できないぞと、互いに声を掛けながら、足取りも慎重になる。入口から滝壺まで10分かかった。高さ20m、横幅30mの水量豊富な、しぶきで涼やかになるはずが、じりじり照りつける強い紫外線で、むしろ汗ばむ。
 

道路を挟んだ向かいの道をバスが入って停まった。此処も、個人が所有する土地を入る。$7ドル。カヤックなどで海路から入ると3$だそうだ。そこからは、珊瑚を敷き詰めた細い道と小橋を渡って歩いた。左右に海面に根を張って緑をなす若いマングローブがある。徐々に海に近づいている。秋永エミオさんが時折、上手い日本語で説明してくれる。「マングローブガニガ、イマス」パチリ。P1000239 「ノニノ木デス」見上げると、柚子のような緑の球が小枝にぶら下がっている。本物を初めて見た。パチリ。

見物し終わった人とすれ違うが妙だ。ズボンの裾が濡れていない。膝上まで海に入ると聞かされていたので、皆水着を下に着て来ているが、そうした姿も見られない。長い人の列の先に、海面とボートが見え隠れした。P1000242巾5m程の対岸へはボートで全員を渡してくれているようだ。どこから借用してきたのだろうか、スタッフの気遣いを嬉しく思った。蘇君がウエストまで浸かりながらボートを押してくれていた。

島の南東部にあるチャムエン島という浅瀬に、かの有名な海上都市の遺跡「ナン・マドール遺跡」がある。そもそも、「ポン(PHON)」「ペイ(PEI)」こそは、「石を高くに積み上げた祭壇」という意味だそうだから、この遺跡を見ずしてポンペイを語る事なかれ、である。

  

Img_0255「ナン・マドール」の意味は、「ハザマの地」という意味で、人間界と霊界の間に海がそれを隔てているということらしい。この海上都市は、1500mと600mのP100025312長方形の海域にあり、玄武岩で井桁に積み上げられた92の建造物が残されている。500年から1500年の間に建設され、王家の墓から、住居、召使いや守備隊、客人の住居、そして葬儀や貯蔵の島から地下牢まである。「首長の口の中」と名付けられた「ナン・ドワース」は、王の墓で、今でも威厳のある造りは形を残している。切り出されたのか、それとも火山活動によるものか、六角形の重い玄武岩は、井桁に組んで15段ほどの塀を張り巡らせ、珊瑚を敷き詰め、その中で工事をしたと見られている。海水パンツ姿のガイドの声に聞き覚えのある声がする。人の輪を覗き込んだら、一等航海士の番留さんの姿があった。初寄港地である此処を企画した番留さんは、先乗りしていた。

その番留さんに訊いた。六角形の棒状の岩は、大きいモノで16トンはあるという。高く積み上げるには、ロープを使ったのではないか。ココナツ・ロープは非常に強いものだそうだ。文字のない王朝で、死期が近づくと、王は次の王に口伝で政を伝えていったと言う。水中に潜ると、大きな円形のアーチがあるそうだ。鯛やヒラメが舞い踊るのも嘘ではないと。インド、日本、中国に伝わる「竜宮伝説」の源がどうやら此処だそうだ。

 

地震も津波も蛇もいない島だと、番留さんは、終の棲家にこの島を挙げるほどだ。電力はディーゼルと風力で作り、24時間使えると秋永さん。収穫されたタロ芋が吊されていたので、パチリ。カミサンは、椰子のジュースを飲みたいと1$を払った。P1000227 滝壺に生息していると言われた鰻と同じ大鰻が池にいた。鰻は、この土地の人たちには神同様の存在で、食にはしない。地区によっては人間の生まれ変わりだとして、家族のように大切に扱われている。

マリアナ海域で産卵して日本に辿り着く頃に都合良く成長していると聞いたことがある。魚偏に曼と書く鰻。曼は長いという意味だが、日本でも埼玉県三郷市の延命寺には、鰻の絵馬があり、昔、洪水に襲われた時、鰻が縄のように繋がって人の命を救ったという言い伝えがあり、菩薩の使いとして、そこでは今も信仰されているらしい。名古屋人としては、ひつまぶしという単語を口にするだけで、涎が出てきてしまう。あのタレが減塩の僕にはいけないものになっている。食べるなら、白焼きに山葵でないとカミサンが睨む。テムズ川の下町、イースト・エンドには、鰻を食べさせる店が集まっているそうで、パセリソースをかけた鰻の煮込みや鰻ゼリー、鰻パイが名物料理だと聞く。炭火で焼く日本に足して、ぶつ切りを煮る英国。ここポンペイでは、鰻を食べる国民をどう思っているのだろうか。

 

昼食は14時になった。なんと、ポンペイで「鰻丼」が出るとは、島民も船内食まではご存じない。日本人は美味そうに神様をパクついた。素麺やカレーを選択した人は、島民に敬意を表した人たちだ。

 

食後は、随時ワゴン車が町のコミュニティ広場に連れだしてくれるという。即席のバザールを町の人たちが、にっぽん丸の船客のために開いてくれているからだ。

広場で待ち受けてくれたのは、約1年ぶりに会った藤川君の顔だった。11日から先乗りしていたとか。ポナペの切手から、胡椒の実、貝殻細工が売られていた。海洋動物のカービングは、フィージーから移民してきた人の手によるモノだと言う。P1000266 3p1000265 P1000267 ノニ100%の瓶詰め(10$)は、便秘に効くのでとカミサンに買う。記念のTシャツを買おうにも、XXLが当たり前のように吊されていて、日本人には買うサイズが全くない。人だかりしていたのは、胡椒の佃煮(1袋5$)だった。いかにもこの土地に住み着いた日本人の手によるモノだ。今年から日本でも売り出すそうだ。酒のつまみにと買う人が多かった。二次三次とワゴン車が船客を運んでくる。入れ替わって帰船する。

港湾事情により、出港を18時から17時に繰り上げるというアナウンスが出た。船客の確認次第、出港とのこと。藤川君は乗船し、番留さんはボートに乗って、水深の浅い港内をにっぽん丸が無事出るまで見届けてくれた。

 

昼寝の間に、高木さんから電話があったとカミサンが教えてくれた。夕食前に7階のリドデッキ横で、「サカオ」を飲もうと集合がかかったのだ。濁り酒にも似た「サカオ」や「カバ」は、腎臓の悪い僕には不向きなので、遅れて上がる。ビールの空き瓶に入った、珈琲色の「サカオ」があった。カミサンも高木さんも高嵜さんも野村さんも、痺れていた。ガイド役をしてくれた松永さんに、高木さんが「サカオ」をタクシーで届けて貰ったという。僕は、麦焼酎を頂く。早くも、ドアの向こう、プールサイドではカラオケタイムになっていた。

夕食は、この3夫婦と野村女史の7人編成で、テーブルを作ってもらった。ひょうんな話から「末期癌」の話になると、高木さんがぼそっと話し出した。

「僕の近所に、牧巌さんという県会議員さんがおってね、選挙んとき、自分の名前を連呼するんだわ。『マツキ、ガンです!!マツキ、ガンです!マツキガンです!』って」

じゃあ、同情票を呼び込んだねと混ぜ返すと、「その人、まあ、おもしろいことに、薬剤師だったんだがね」笑いが輪唱のように波打った。末期癌に聞こえたんだが、彼は96歳まで長命だったというオチで、どっと笑いが高まった。辺りは既に2組の客だけになっていた。

 

ネプチューンバーに21時半から22時半までという約束で落ち合う。高木さんが「サカオ」を森田純子バーテンダーに寄贈する。カウンターの止まり木にポナペ8年滞在経験の稲積君が居た。どこから手に入れたのかと問われて、秋永さんからだと答えると、秋永一族の酒なら、安心していただくという。胡椒の根を潰して擦って乾燥させるが、秋永一族なら、虫は入っていないから安心ですよと口に含む。ワインのように、口内に液体を回し、シビレさせてから飲む。鎮静剤だという。祭りのときに飲むので興奮剤かと思い違いをしていたのは僕。後から来た物知りの長坂さんによれば、酋長との会議に、議論が興奮しないよう、気を鎮める効果も狙っているとのこと。

「ところで、奥さんはポナペの仕事を辞めたのね?」とカウンターの稲積君に投げると、困った顔をしはじめた。「あの……ぼくら、今度、結婚するんです、船の上で……」

咄嗟に意味が解った。彼の明るくなった理由も判った。モーレア島海域でデッキウエディングをするという。おめでとう!とグラスを上げた。ついでながら、お母さんはお元気ですかと訊いてみた。ついに、人工透析になったとのこと。あれから4年が経っていた。僕にもいつか来るのだと心した。

高嵜さんは南十字星を見るために4階のプロムナードデッキに、僕は、メールをチェックしにライブラリーへ。東京は未だモパスの航海日誌は未だ流れていないそうだ。

2340分、部屋に戻る。洗濯室が混んでいて、洗い終わりまで本を読むとカミサンは横になった。最初の寄港地、ポナペには二組の夫婦にまつわる話があったのだ。

この船の上では、移動大型プラネタリュームが星を瞬かせていることだろう。しばらく、またデッキゴルフが続く航海日だ。

 

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07.05.13 ミクロネシアへ3

今日で時刻改正は終わった。日本との時差2時間である。睡眠不足だ。八点鍾の鐘が目覚ましになっている。

P10001994日間に及ぶ航海も、いよいよ明日はポンペイ島に到着です。今朝は残念ながら雲の多い日で、あちこちにスコールの筋が見えます。北緯12°44‘、東経154°37’ポンペイ島より750kmの位置に近づいております。速度18ノット。時速33kmです。曇り。風は東から12m、デッキでは19mの爽快な風を感じられます。気温265℃、水温286℃、波の高さ2m。

ポンペイはミクロネシア連邦に属しています。ミクロネシア連邦はコスラエ、チューク、ヤップ、ポンペイの4州に分かれており、面積は702k㎡、人口は 2004年の集計で108000人、首都はポンペイ島のパリキール、最大の街はチューク島のウェノです。

大きな島には河川がありますが、水処理施設が無いため、飲料水は雨水だけであると言われています。特に小さな島では水不足で、島民はココ椰子が飲料水です。公用語は英語。ポンペイ島は丘陵性の火山島です。周囲をサンゴ礁に囲まれ、面積は456k㎡、パンノキ、ココナッツ、胡椒、タロイモ等を産しております。人口は約3万人。ポナペ到着の明朝は、晴れ時々曇り、やはりスコールはあるようです。狭い水路を通って、入港します。日中の最高気温は30℃、湿度は80%。では、あと一日、ゆっくりとお過ごし下さい』

 朝食は高嵜さんの横に案内された。昨夜、落語の後はバーにも行かずに就寝したとのこと。左右の人たちも昼寝、夕寝をしたという。やはり、30分の短縮は体を疲れさせていく。

 

845分、少し早めに後部デッキに出る。シャワーに降られ、床面は薄い水膜が張っていた。今朝は波乱のゲーム展開だな、と思わせる。早く来たメンバーが、急いで備え付けのスイーパーで以て掃き出した。

草浦さん欠席のまま、8人でスタート。1030分に片山教授の講義があるため、時間制限、1015分終了とする。紅白を決めるジャンケンで、高嵜、松田、松田サエ子さんと僕が赤組、先攻白組は菅谷、工藤、鬼界、塩野のメンバーとなった。結果は、菅谷、工藤の巧い連携にやられて、我々で権利玉に成ったのは二人だけだった。不甲斐ない負けとなった。曇天だが紫外線はきつい。腕も日焼けしはじめた。

 

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Img_0157_1 片山一道教授の講義『ポリネシアの人々と文化』2日目「南洋の島々」を高い島、低い島と分けて、環礁島を図で分類説明してくれた。高い島というのは、山が急峻でまだ周囲に珊瑚礁が育っていない。壮年期の島は、裾礁というフリージング・リーフが周囲に発達している。裾礁が隆起したものや壮年期の高い島になると、それがバリヤーリーフと呼ばれる形になる。これから先のボラボラ島がこれに当たる。低い山というのは、環礁島、アトールと称される。大きなラグーンと言われる内湖の周りをモツと称する低い小島が取り囲んでいる。他には、テーブル状の隆起台地の周りに珊瑚礁が発達している島だが、ポリネシアには少ないという。

講演後にライブラリーでメールのチェックをする。LAの反町君がセンテ三原社長と互いに連絡取れたとのこと。三原社長へ未痛だった原因は、アドレスからhが抜けていたし、東さんのメールアドもgategeteと打っていたことに気付いた。とほほ。葵プロダクションの藤原君に、山本沙織君の一次通過を知らせておく。

 昼食の13時という時刻、まだ馴染めていない。何度も早くに来てしまい、フライングを起こす。本日は「母の日」だが、メニューの塩ラーメンやチャーハンに意味は込められてはいない。さて、このラーメン、低塩なのだろうか。イエローチップは、平野さんに訊いたら、僕独りだけだとのこと。こりゃあ凄い、平均年齢70歳過ぎの方々で、食事調整なしの方々ばかりだとは。料理長、お世話になります。

 

P1000456_1 14時からデッキゴルフ教室を覗いてみる。 1番と4番ホールの短距離を使って、基本的な打ち方をインストラクターの黒田君が指導していた。知っているのは野村女史に高木夫妻、それに永野夫人と三吉さんだった。

 

夕食前のメインショーというのも、妙なものだ。これまでにない日程に戸惑う。今夜は、三遊亭歌る多の落語。女性の真打ちは4人いるというが、そもそも女性落語家が13人もいることを初めて知った。演題は不明だが地話。一息で立て板に水の、話しっぷりは、聴いていて気持ちがよかった。老齢客を前に、さらりと下ネタを入れ混ぜて語り、笑いを取っていた。「ギッチョンチョン」の踊りを聴衆に教えて、終わりとなった。「モノは入れよで、丸くなる」が受けた。

 水本カメラマンのモパス・ウエブサイトは、日本では未だ読めていないらしいが、船内客には内容がインフォメーション・デスクの掲示板に出され、数日分がアルバムとなってライブラリーで閲覧できている。インフォメーション・デスクには、水本カメラマンの略歴も掲示されている。06年世界一周クルーズ時、「貴男も写真が趣味ですか?」と、プロカメラマン東さんが船客から投げかけられた失礼なことは、これで起きないだろう。

 夕食は、左舷側に案内された。ここは、ジュン君とニック君の担当エリアらしい。一組置いて奥に高木夫妻、野村女史、高嵜夫妻、背中には松田夫妻が座っている。菅谷さん、工藤夫妻の食事は1回制の方だ。2回制は、レストランでサービスするフィリピン・スタッフにも2倍の労力を強いている。飛鳥Ⅱも2回制だが、クルーズ人口増大となると、商船三井客船が2万トンクラスのままでいいのか、新造船が噂の種になりつつある。

06年世界一周クルーズのDVD写真集と航海日誌を見て、感想が欲しいと高木さんと野村さんから、それぞれ手渡された。南洋上で1年前の世界一周クルーズを追体験することになった。

今晩から、観るもの、読むものが増えた。

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07.05.12 ミクロネシアへ2

昨夜の焼酎が寝酒になった。ぐっすりと眠った。朝6時に下肢が攣る。目が覚めたが、二度寝をする。30分早くなっている。八点鍾を聴きながら8時に起きる。

『にっぽん丸は、現在ハワイより少し南、またフィリピンより少し北に位置しています。日本を出てから既に3日間時計を毎日30 分ずつ進めて参りましたが、皆様体調はいかがでしょうか。時刻改正は明日の早朝まで、もう一日残っております。毎日一日を23時間30分で過ごしますと、 やはり体調を崩しますので、十分な睡眠をとっていただきたいと思います。
 北緯18°55‘、東経150°41’。速力は19ノット、時速35kmで通過しています。 晴。風は東南東8m、11時方向より18m、気温26℃、水温281℃、波の高さ15m。本日は、1218分頃、太陽が本船の真上に参ります。

従いましてデッキに出られますと皆様の影が、ご自分の足元だけ、一番短くなります。お試しください。これは地球の地軸が太陽に対して少し傾いているからです。「春分」、「秋分」の 日では、太陽は丁度地球の赤道上に位置し、昼と夜の時間が同じになり、「夏至」の日は、太陽が地球上の一番北まで上り、反対に「冬至」には太陽が一番南まで下がります。このため、北極地方では、「夏至」の日には太陽が沈まない「白夜」、「冬至」の日には太陽が一日中昇らないという状況にもなります。本日、太陽は北緯18°まで上ってきております。』

にっぽん丸の緯度と太陽の緯度(赤緯=天文学の赤道座標系で用いられる緯度)が一致すると、太陽が真上に来るということのようだ。

 

9時からのデッキゴルフは、1140分内に2回戦出来た。赤組になった。初戦、勝負となる終盤のロングショットを僕のミスで負けた。赤3人に、白の松田さんという対決になったが、松田さんの絶妙なミドルショットがゴールサークルに決まって自力でクリアされた。2回戦は、ジャンケンで女性3人が松田さん側に付いた。対する白組は、男性4人。赤3人残留、白クリアで勝ち。慣れてきたのか、スピードのある展開だった。

 

 

P1000187k P10001931220分、太陽がにっぽん丸の真上に来る時刻だ。被写体にカミサンを連れ出して影の無い写真を俯瞰で撮る。高嵜さんは毎年同じシャツで、この記念写真を撮るそうだ。右舷と左舷に別れて撮り合う。後はポケットにある部屋のキーを立て、腕時計を添えて撮る。時刻が判るからだ。

寝不足だからと、昼食までの時間、横になった。ルソン島の東、同緯度を南下中。

昼食後、カミサンは、シアターに慌てて出ていった。P1000197 「なんでもビンゴ」というゲームが始まった。課題に対して、参加者が思いつくものを自分の表の中に書き入れて行く。海洋動物なら、鯨、アザラシ、ラッコなどなど。司会者に指されたら、その動物名を答え、自分たちの表の中に○をしていく。後は通常のビンゴゲームと同じだ。なるほど、イベントスタッフも考えるものだ、と感心した。

ライブラリーでメールを4本受信した。山本沙織君、葵プロモ、デルフィス共に一次通過した。山縣、菅井両家へのメールはエラーで戻っていた。

 

18時、ドルフィンホールで、歌手・ミネハハのコンサートを聴いた。僕のかつて担当していたサッポロ一番もAGFのロゴも歌ってくれていた。スタジオ・ミュージシャン出身で、3オクターブが売りだった。我々が現役だったころの歌手、伊集加代さんを思い出した。「蘇州夜曲」から始まり、「ジャニス・ジョプリン」の歌から「アメージング・グレース」、そしてオリジナルの「ひ・と・つ」と、選曲の幅は広いのだが、曲風に馴染まないインド風のステージ衣装は、宗教じみた説教を聞かされている気分だった。アンコールを強要する妙な間の動きと、それを歌い終わった後に自ら「では、もう一曲」と口にしたことは頂けなかった。リハーサルをしているのだから、臭い演出は抑えたい。老人ホームの慰問ではないのだ。因みに「ミネハハ」とは、どうやらインディアン語で「母なる微笑み」という意味らしい。

ホールを出ても、まだ時間が有り過ぎる。夕食は1930分。この間の悪さ。2回制の難しさだろう。2階エントランスホールでは、部屋にも帰れず、うろうろする人で一杯だ。ウエイティング・バーなどが設けられていれば、客同士の懇親も出来るのにとは、野村女史の提案だ。今夜は「日本酒祭り」。食事を終えた1回制の客が出てきた。赤ら顔で、酔いが回ったご機嫌の男性がかなり居た。このまま、ミネハハのコンサートに出掛けると、妙な掛け声がかかりそうだと、誰かが口にした。

昨夜バーで一緒になった長坂夫妻と高木夫妻と一緒のテーブルになろうと、野村女史が7人席を平マネージャーに頼んだ。案内された席の近くには、なんと高嵜夫妻と松田夫妻が座った。ならば、新しくデッキゴルフに誘い込もうと身振り手振りで松田さんに合図を送る。和気藹々の内に、メニューにある番号で、希望の日本酒をオーダーし始めた。今夜は、誰もワインを頼まない。只酒である。久保田の「千寿」と「越乃寒梅」が、何回もデキャンターで注がれていった。

食後、皆はサロン「海」での落語を聴きにエレベーターで上がったが、僕は1階に降りてシアターで「宮沢賢治」を観た。

座っていても下肢が張ってきたのが判った。寝る前に、熱いシャワーを当てて血流をよくした上で、しっかりバンテリンを塗りたくった。

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07.05.11. ミクロネシアへ1

6時、窓の外は曇り。船は全速力195ノットで南東の寄港地ポンペイに向かって一直線である。カミサンは日の出を撮って、また眠ってしまったようだ。P1000163_1

ちょっと仰向けのまま天井を見回してみる。部屋の左右にL字のカーテンレールが2本。その下にベッドがある。余程でなければ、このカーテンは使わないが、単身乗船客同志が相部屋になる際には、必要なもの。キッチンと洗濯室が無いだけで、長期滞在しても、なんとかやっていけるのは、この部屋の機能が凝縮されたレイアウトデザインだということだ。スーツケース4個、段ボール5個分の荷物が、狭いこの何処に吸い込まれたのだろうかと感心する。周囲を鉄板で仕切られたこうした船室というのは、プレファブ化した箱形のユニットを建造中の船体にはめ込むようにして完成する工法を、ディスカバリー・チャンネルの番組で見たことがある。そうした造りが互いの強度を増して、堅牢さを保っているのだろう。それにしても、つくづくコンパクトなレイアウトだと感心する。

745分、部屋に陽が差し込んできた。

8時、八点鍾が鳴った。
 『今朝、空は晴れていますが、まだ南寄りの強い風が残っております。現在北緯2457分、東経146142分、丁度、硫黄島と南鳥島の間を南下しております。そろそろ日本の海ともお別れです。天候は晴れ、南南西の風13m、13時の方向より21mと強い風が吹き付けています。波の高さは2~2.5m。気温245℃、水温251℃。』

八点鍾は、1617世紀の大航海時代の帆船に30分計の大きな砂時計を置き、30分毎の速力他の記録を記し、30分経過したことを知らせるために、鐘を鳴らしていたという。1230分には1回、13時には2回、1330分には3回叩いていた。16時、20時、24時の4時間毎に8回を叩いて時刻を知らせていた。当直の交代は、8回の鐘で行っていた。いまは、海上衝突予防法により、船に法定備品として設置されている。濃霧の時には、舳先で鐘を1分間に5秒間隔で鳴らし、艫ではドラを早く 打ち鳴らすことになっているという。
 最後に、この八点鍾の打者と、今回からは正午の汽笛を鳴らす船客の募集を830分からサロン「海」で予約会をすると呼びかけた。

 

Img_0325_7 朝食後の840分、7階のオートヴァイブに腹部を10分揺すらせて、9時スタートのデッキゴルフに向かう。いつものメンバーが揃い、ジャンケンで組わけする。赤組は、松田夫妻、工藤、菅谷に萩原。赤は、白の4パックを残し、全員クリア。つまりゴールした。これで、2勝目。松田さんは神戸以来、初勝利だと喜んでいた。この南洋クルーズは、60%が洋上の航海日である。つまり、デッキゴルフ三昧できることを見込んで、このメンバーは乗り込んでいる。

 

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11時、入国説明会とオプショナルツアー説明会に出るため、ドルフィンホールへ向かう。全員出席をと要請されていたのだが、300名はいない。2階席には未だ余裕があった。

初寄港地となるポンペイ入国書類について、星野クルーズディレクターの説明で、ホールに笑い声が出る。「職業欄にホームメーカーとありますのは、大工さんではありません。主婦の意味です。男性はリタイアードと書けるが、女性はいつまで経っても主婦なのですね」なるほど、考えさせられる一言。続いて内山ツアーディレクターから、島内観光ツアーの説明。5月の船内レートは、1ユーロ=11895円となっていること。交通手段には現地のスクールバスを借用することがあるとのこと、ナン・マドールへの観光には膝上の深さの海を15mの距離だが徒渉するため、濡れても良い服装で行って欲しいと説明があった。

 

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昼食は弁当となっている。細長い容器を手に、天幕の張られたスポーツデッキや、プールサイド、レストラン「瑞穂」などなど、思い思いの場所に散っていった。サロン「海」で食べていたのは、我々だけだった。実にゆったりと冷房の効いた場所での昼食となった。浜畑さんに薦められただけあって穴場だった。

 

メールのチェックをするためにライブラリーに入る。P1000076400x_1船内のメールについて書いておこう。日本の外洋客船で自分のパソコンを持ち込んで通信できるのは、このにっぽん丸だけなのだ。自分のパソコンで何度も推敲した上で、長い原稿文も重い写真も、オンタイムで送信できる。03年度の世界一周クルーズの時は、洋上から同時発信して航海日誌をネットにアップしていた。予想を遙かに超える通信金額になった。寄港地でのツアー参加をキャンセルしたほどだ。06年度の世界一周クルーズでは、洋上からの通信をやめ、携帯電話の電波を寄港地毎に飛ばし、日本との交信をして通信費を抑えた。離岸すると途端に通信不能になる。但し、寄港地までの数日間にスパムメールが1回で200本も舞い込むのには閉口した。 今回は、自分のパソコンからの通信を諦め、船内アドレスを契約(航海期間内24時間18000円)した。予め創った文章を送ることは出来ない。写真も駄目。USBも使用不可。しかし、日本との交信費を一番抑えられる。いざというときは、無線室から自分のパソコンで送信する。

さて、送受信は、なんと全部がエラーで未送信となっていた。再送信する。部屋に戻って少し、昼寝。

Dscf7017k 16時になった。シャッフルボードの時間だ。参加してみたらとカミサンに勧めた。工藤さんと一緒だったせいか、初体験を楽しんだようだ。シャワーを浴びて二人とも体を横にする。船足は185ノット。かなり急ぎ足だ。昼食時にかなり速力を落とした分、取り戻しているのだろう。

19時、食事に向かうが、まだ早すぎた。部屋の配置にも、2回制という夕食の時間にも戸惑っている。慣れるには未だ時間を要する。

1930分が過ぎた。平マネージャーの案内でジュン君が引き受けてくれた。彼の担当エリアのテーブルに着席した。ナインティンナインの岡田君にどこか似ているジュン君が、4人の父親だと知って驚いた。フィリピンでは5人の家族が帰りを待ちわびている。帰国できるのは仲秋くらいだと笑った。

食事は、07年の世界一周クルーズよりも、細やかな手作り感がする。味も03年に戻ったような気がして美味しい。近くに高嵜、松田の両夫妻が座っていた。今晩辺り、焼酎のボトルをキープしようと思うと、高嵜さんに声を掛けた。中林さんはスイス旅行中だという。僕の送ったメールは読んで貰えていないことが判った。

 

21時、約束通り、焼酎のボトルをキープしようとネプチューン・バーに入った。高嵜さんは既に「いいちこ」を入れていた。薩摩酒造の焼酎、とりわけ、『神の河がバーに入ってないのが残念だ。僕のボトルも「いいちこ」となった。西村さんと高嵜さんの間にと勧められて、カウンターに座った。左隣は、初対面の長坂さん。長坂さんは、にっぽん丸の常連で、かれこれ100クルーズしているという。なぜか、初任給の話になり、13800円と節を付けて歌ったことから、昭和38年入社組の同年生だということを知ることになった。じゃあ船内で「38会」でも結成しましょうかと、長坂さん。偶然は更に重なった。今回の我々の船室、118号室は、これまで長坂さんの定宿号室だったというではないか。静かな場所ですよ、に同感した。船に相当詳しいので、これからも勉強させてくださいと頼んだ。

バーを出たのは2230分。長坂さんは、これからですよと言って、手を振った。

今夜、中日は巨人に負けたようだ。

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2007年7月19日 (木)

2007.5.10 鳥島沖航行

  昨夜、横になったとき、あの震動を久しぶりに体感した。そう、船のリズムは、これなんだ。ひさしぶりだなあと一人にやついた。心地よいエンジンの細かいバイブレーションで、いつしか眠りに入った。

  P1000179 朝は、これまた、4年ぶりに聞く白川船長の八点鍾のコメントだ。
『この度は、にっぽん丸「南洋の楽園」クルーズにご乗船いただき、誠にありがとうございます。乗組員・スタッフ一同心より歓迎申し上げます。現在、アホウドリで有名な鳥島の東
200kmの地点を南下しています。今回通常の伊豆諸島からグアムへ南下する航路とは違い、14日のポンペイ入港まで島影を見ることなく、見渡す限り大海原の航海です。低気圧が関東方面を通過する見込みですが、本船は南下していきますので、影響なく航行出来るものと見ております。風速は9mですが、正面からの風のため、相対風速で約18mの風を感じます。デッキに出ると風が強いので、ドアの開閉で指を挟まないよう注意してください。本日は9時半から避難訓練がありますので、皆様のご参加をお願い申し上げます。今朝より時刻改正で船内の時計は、ポンペイまで4日間毎日、30分ずつ進めてまいります』

  朝食は2回制ではないため8時が一番混み合いますよ、とサブマネージャーの浜畑さんから教えられていた。8時半に行ってみると、レストランの中央は洋食席で満席だったが、不思議に和食の左右席は、がら空きだった。洋食だとしても、そうしたときは臨機応変に左右席に案内される。和食の場合は、ウエイターがセットされた料理を運んでくれるが、洋食の場合は、四角いプレートを手にして中央のスペースに設けられたビュッフェスタイルで各自が選択する。僕は、これまた、ひさしぶりに、オートミールをボウルに入れた。このオートミール、6年前は、シェフの気分で出たり出なかったりの不定期だったものだが、浜畑さんの計らいで常時出して貰えるようになった。野菜サラダは毎日たっぷり出てくるのだが、カリウムの摂り過ぎを案じて少々に。ヨーグルトと野菜ジュース。これが、僕の朝食だ。煮野菜ならカリウムが落ちて安心なのだが、野菜スープはカリウムが溶けているだけに、避けねばならない。デザートも豊富に出るのだが、柑橘系か葡萄、西瓜を選ぶ。大好きなバナナはカリウムが多いため、今の僕にとっては危険な果物となった。

  フィリピンスタッフが、紅茶か珈琲かを訊いてくる。「瑞穂」のコーヒーは、非常に飲みやすく今朝は2杯も飲んだ。乗船して初めて高嵜さんと顔を合わせた。初回のデッキゴルフは、防災訓練や昼食の2回制ということもあって、14時半からのスタートと決めた。

   朝食後、部屋に戻るエレベーターホールで、なんとアサヒの瀬戸会長の姿が眼に入った。いや、現在は相談役になられている。僕と瀬戸さんの接点は、スーパードライ新発売時の営業本部長時代である。話していたのは和田希公子さんだった。話が途切れたところで、挨拶をした。確か、2008年の世界一周クルーズに乗られると川野チーフパーサーから聞かされていたのですが、と質問すると、来年は海外出張と重なるのでキャンセルしてしまった。それが、今回乗船した理由なのだそうだ。思いがけない初日のサプライズだった。「FX(スーパードライの暗号)、20周年おめでとう御座いました。317日は、もう一人の私の誕生日で御座います」「いや有り難う、貴男のお陰です。いつか夕食を一緒にしましょう」

……こういう会話が交わされる日が来ようとは、思いもよらなかった。僕のラストクルーズに誰かの力が引き合わせてくれたに違いない。

 
   9
時半、船内に緊急ベルが鳴り響いた。短音7回、長音1回である。これを合図に、クローゼットの最上段に格納されているライフジャケットを着用し、階段を駆け上って4階のプロムナードデッキに集合する。ボートステーションは、B(左舷)の4番である。法令により全員参加である。一緒のグループには、06年の顔なじみ、長野夫妻がいた。
  誘導担当者から「いざというときは、厚着をされることをお勧めます」と付け加えられた。なるほど、世界一周クルーズとは違い、南洋クルーズの今回は誰もが夏姿一辺倒だから、海水と海風で体温を奪われることを考えてのことだ。

  解散した時、稲積さんの息子さんらしき若い夫婦がいた。今回の寄港地にポナペがあるからで、もしかしたら、彼かも知れないなとカミサンに話した。


  実は今回は昨年の100泊クルーズから得られる、いわゆるポイント点数を活用しての割引乗船である。金銭に余裕があるわけではない。二度の世界一周クルーズをしたが、地球の大陸すべてに足跡を残したのでもない。南アフリカも南米も知らないままだ。まだ赤道を越えてもいない。考えて見れば、地球の表面積の1/3は、日本が向かい合う太平洋からオセアニアの大海というおおきな空間だ。P1030893t そこは、点としてのフィジーとハワイしか知らない。今回は、赤道を中心にして、その海原を縦に回るコースがあった。この「南太平洋楽園クルーズ」である。腎不全の進行状態にも依るので、行けるときに行こうと決めた。資金繰りは二の次で予約したものだ。だからオプショナルツアーは、カミサンの希望で、ポンペイの「ナンマドール」とフィジーの「ガーデン・オブ・スリーピージャイアント」だけ。そして後は、一点豪華ツアーに絞った。最下層の船室でクルーズ料金を抑え、ボラボラの水上ビラに泊まるオーバーランド(外泊して次の寄港地で合流する)ツアーを予約した。昨年、モルジブの水上ビラ宿泊ツアーを断念したからだ。飛行機嫌いのカミサンは、後の問題とした。最下層客室を早くから頼んでいたのもそれだった。出航してからはカミサンを連れ出そうと毎日口説いた。ようやく返って来た言葉は「どうせ、小さな飛行機だから、座席が取れないわよ」だった。
   10時を待って、3階のツアーデスクに上がった。なんとかボラボラの追加予約をする。シングルルームからツインルームへの変更と併せて、飛行機の座席確認をするため、二三日待つことになった。
   P1030876olt_1

1015分からは、ドルフィンホールで最初の講演、「ポリネシアの人々と文化」を片山一道教授から聴く。彼は京都大院理学部研究科教授で、現在はオセアニア学会と太平洋学会の理事でもある人類学者だ。20歳の時から延べ約1000日間、ムロラン環礁で調査のために滞在したという。以下が聴き書きの要旨だ。

《 世界最後の専制君主国家であるトンガは昨年11月革命騒ぎがあったが、現在は平静を保っている。同じくフィジーでも12月にビジレブ島の首都スバでクーデターが起きたが、今回寄港するラウトカは島の真反対に位置し、タクシーでも5,6時間はかかる遠距離で、問題はない。ビジレブ島は、四国の半分の大きさである。

そもそも、地球上で海の占める表面積は2/3。その半分が太平洋で、地球規模で言えば、1/3という広さをもつ。私が主題とする、いわゆる「ポリネシア・トライアングル」とは、ハワイとニュージーランド、そしてイースター島を結んだ三角形で、8000から10000の島がある。「ミクロネシア」は「小さな」島々、「メラネシア」は、ジャングルの多いことから「黒い」島、「ポリネシア」は「多くの」島々。名付けたのは18世紀後半ブーガンビルという航海士である。中でも「ポリネシア」は地球表面積で1/6強の面積だ。この島々を往来する飛行機便のタイムテーブルには充分気をつけないといけない。なぜなら、この海域には、赤道が横軸に日付変更線が縦軸にあるからだ。

  この島礁世界は、3500年前から海の民が住んでいた。日本で言えば、縄文時代である。タヒチでも2000年前、弥生時代からである。彼らがアジア人である証拠は、生まれてきた乳児には、一様に尻に蒙古斑点がある。「尻の青い民族」だ。

  ポリネシア人を一言で言えば、巨人。手足が大きい。普通の人で、身長が1m94もある。足のサイズは平均29cm。下顎が発達していて筋肉質骨太で「ヘラクレス型体型」と名付けた。主食は魚やタロ芋、ココヤシ。元来、11食だった「食い溜め」の慣習が、砂糖と缶詰の西洋食普及によって、今では60歳を過ぎると殆どが糖尿病になっている。

  P1030891_1 そもそもポリネシア人の祖先は何処からかと研究してみると、「ラピタ」人であることが判った。「ラピタ」とは、ニューカレドニアの遺跡から名付けられたのだが、アジアの、それも台湾辺りから南下してきた人々だったというのが、研究の結果判明した。学者間ではラピタ人を「太平洋のバイキング」と称している。彼らのダブルカヌーは、20m以上の長さで、200人は乗れたようだ。そのカヌーが今夏日本で展示される。

  ラピタ人が3000前に航海したルートを辿るのが、今回の南洋の楽園クルーズコースである。通常のクルーズコースはニュージーランド、オーストラリアを回るが、今回のクルーズコースは、本邦初めての島巡りとなるので、最高のチャンスを得たのです。 》

 

  昼食は06年に同じ世界一周クルーズをした二人の方と一緒になった。毎回同じ船室だという方と、キャンセル待ちだったが2日に連絡が入り4日に乗船したという驚異的な短期間乗船を果たした方だった。昨年の世界一周クルーズで船上予約だったのに、キャンセル待ちで3月下旬ようやく取れたというデッキゴルフ・メンバーの菅谷さんより、更に上の方がいたことになる。

   雨は小降りになっていた。航路掲示板を覗いていた高嵜さんが、14時半からのデッキゴルフは大丈夫ですよ、と手を挙げた。カミサンは午前中の若者に声をかけた。「稲積さんじゃあないですか?」「はい、そう、ああ、萩原さん!お久しぶりです!」以前よりは明るい表情だ。すかさず僕も喜んで訊いた。「あの時、ポナペに勤務していた奥様ですか?」「は、はい」歯切れが悪い。03年次、彼は腎不全の母親の付き添いで乗船していた。僕よりも腎臓の状態は悪かったお母さんとは、不思議な縁で岐阜で2回も会っている。

  デッキゴルフまで少し時間がある。7階のフィットネス・コーナーに上がった。最近人気のバイブレーションマシーンが新設されていた。 P1000145_1 着服したままで10分間500円というやつだ。「10分間が1時間歩いたのと同レベルの運動量です」とある。試した。ウエスト周りの肉が揺れてよじれて爽快だった。 
  懐かしい後部甲板に行ってスティックを探す。古いスティックが未だ破棄されずにあった。
06年の航海中に新しいスティックが甲板部の手で造られたが、やはり、03年次の型を手にする。

   8人でスタート。塩野、喜界、草浦の3名の方々は、僕にとっては初めてだった。それに、06年世界一周クルーズのメンバー、菅谷、松田夫妻、高嵜、萩原のメンバー。最多年プレイヤーの工藤さんは、今晩がフォーマルナイトのために美容室に入ったらしい。
  初日は雨模様でのスタートとなった。塩野、喜界、萩原、高嵜が白組となった。
1、4番ホール周辺はブレイキがかかり、反対に2,5番の周りは薄い水の膜が張ってミズスマシ状態で打った玉の距離は倍以上延び、場外に出て自滅玉が多かった。ともかく初戦を勝った。

 

  部屋に戻るとカミサンは昼寝だった。出航最初のフォーマルデーはウエルカムパーティだ。2回食制の我々は19時からになる。まだ時間が悠々である。今回はフォーマルもインフォーマルも3回だ。今回はこのフォーマルデー以外に○○ナイトと称する日程も、予め日程が公表された。女性達には、衣装の組み立て、アクセサリーの選択など、事前に知らされてこそ気持ちも落ち着いて準備できるはずだからと、昨年アンケートに書いた。これが実行されたからには、他の船客からも多数要望が出ていたのではないかと思われる。P1000104_1

  いつもなら、ドルフィンホールに続く廊下は、着飾った人たちで長い列が出来るのだが、今回は2回制のためか、行列は5組ほどでしかなかった。白い制服姿のクルー三役(白川船長、長谷川機関長、川野チーフパーサー)に迎えられて入る。意外にもホールは、極めて少人数でゆったりとした空気だった。松田夫妻の隣に座れた。早速、平野カメラマンに記念写真を撮ってもらう。彼は、にっぽん丸専属のカメラマンで、ツアー観光地にも同伴して随時撮ってくれる。    

 P1000114_3  P1000116_3船長によるクルーズスタッフの紹介 が始まった。ツアーコンシェルジュの内山さんとクルーズ・ディレクターになった蘇君が、三役同様の白い制服で肩章も付いていたことに何故か嬉しかった。拍手に力が入った。それぞれの挨拶が続く中で、一等航海士が「12日の夜は、南十字星が観られますのでスポーツデッキに出て来てください」と言った途端、場内がざわついた。

  バンド演奏が始まり、歓談の時間になった。各テーブルを回って川野チーフパーサーが挨拶に来てくれた。「瀬戸さんご夫妻との食事をセットしますからね」。P1000125tホールの奥に瀬戸さんの姿を見つけた。挨拶に向かう。
  いつの間にか、川野チーフパーサーが背後にいて、三人で記念写真をと僕の手からカメラを取った。瀬戸ご夫妻と写真に収まった。

  写真撮影で遅れてレストラン「瑞穂」に入ったら、センター左のテーブルに、野村道子さん、高木夫妻、松田夫妻とカミサンがテーブルで待っていた。高木さんは、今春名古屋から伊豆高原の野村さんの美術館を訪れていたそうだ。同じ時期、我々は名古屋の西出さんと千葉の菅谷さんのゴルフ場にいたのだと話した。 
  食後は平野忠彦のバリトンコンサートだったのだが部屋に戻った。今日一日は長く感じられた。


   06年の世界一周クルーズよりも波は高い、揺れも大きい。今夜も時刻改正で30分早まる。毎日、時間が短縮されていくのだから、体を休めておきたい。

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2007.5.9 出航:横浜

明け方まで準備をしていたので目覚ましで飛び起きた。いよいよ我々にとってのラストクルーズに出掛ける。何とも妙な高ぶりを感じている。7年前の『思い切って』乗船した時とは違い、最後の旅という想いが複雑に交叉する。本日から、船では毎朝8時には朝食に出掛けるのだ。正直、クルーズの朝食時間は苦痛である。今回のクルーズは航海日が多いので、デッキゴルフに出掛けるようなものだ。P1000007

世界一周クルーズよりは、荷物は少ない。今回も、通販で購入した折りたたみ式のパソコンデスク「どこでもテーブル(2900)」は持ち出した。カミサンと僕の2台もパソコン、1台のプリンター、カミサンにプレゼントした6倍ズームと17倍の新しいモノを含め、デジカメ4台と20枚近いCDRW。今回は、120Gの耐震ポータブルHDDを購入した。撮影済みの写真を確実に取り込み保存する体制だ。パソコンとプリンターとカメラ以外は、日通の宅配便が4日に集荷してくれた。実は、5月の連休に荷造りを始めたというずぼらさだった。僅か3日間だった。このため、例によって、予め段ボールに放り込んでから仕分けした。

 

12時に日本交通のタクシーが来た。横浜大桟橋に着いたのが1220分。偶然にも我々のタクシーの前で降りたのが、06年組の菅谷さんと岩崎さんだった。

にっぽん丸の待ち合わせコーナーには続々と馴染みの顔が現れた。

P1000018 『思いきって・・』の読者、横浜の大村道子さんが我々の前に姿を見せた。愛犬の昼寝の時間を見計らって、見送りに来てくださったのだ。電話では何度かお話しているのだが、お会いするのは初めてである。それに、映像専門学校の受講生、中村美和子君が出航の写真を撮りたいと来てくれた。彼女は、建築会社の経営者でありながら、もう一つの顔はプロのカメラマンである。もう一人、マスコミ青学会の後輩、山本沙織君が現れないままに、1330分を過ぎた。商船三井客船のスタッフが、乗船手続きを促している。やむなくボードで仕切られた中に入る。受付カウンターで各旅行担当社からボーディングカードを受け取る。「ゆたか倶楽部」の松浦ジュニアからオリジナル名刺が手渡される。担当旅行社のロゴ入りだが、船内では大変重宝する。前回まではカミサンと別々だったが、今回は二人の名前を併記した。


P1000020 イミグレを通る。ずらりと並んだフィリピンスタッフが口々に、「お帰りなさい!」と声をかけてくれる。その中から一人が飛び出してきた。顔を見ると、2003年世界一周クルーズの時のジュン君だった。4年ぶりだった。「エリーワ、オリマシタ」降りましたか、居りましたか?咄嗟のことで意味が受け取れなかったが、顔なじみのジュン君が乗っていたことを喜んだ。エリーは下船して休暇に入ったという意味だったのだろう。ギャングウエイ前では、白川船長、川野チーフパーサーが並んで出迎えてくれている。

今回の船室は、最下層の1階だ。部屋には、宅配便で送った段ボールもスーツケースも運び込まれてあった。部屋の奥の小さな丸テーブルに花が飾られてあった。ここは、5階のスペシャルルームではないのだ。驚いた。封書が添えてあった。開けると、大学の放研の仲間、岡田紀美子さんからだった。舟形の陶器に入った「枯れないバラ」と言われる高価なヴィータローザ(VitaRosa)だった。P1030865visa_rose フランスの技術で生け花のバラを枯らさずに、イタリアでデザインされ、モナコ経由で販売されている、3年以上保存できるバラである。税関を通り船室に届けるまでの商船三井客船の担当者との経緯が書かれてあった。サプライズを心から有り難う。

さて、と荷解きをしはじめたとき、誰かが部屋をノックした。平レストランマネージャーが立っていた。手にしたプラスティックのチップが差し出した。先回までの赤ではなく、黄色である。けげんな顔を見て取った平さんがすかさず言った。「今回から、黄色が塩分制限食となりました」。通常、食事の調整を依頼するには、診断書の提出が義務づけられているが、にっぽん丸に乗るのは、今回で4回目だ。病状が悪化しない限り、診断書の新たな提出は免除された。ルームキーに早速チップを付け加えた。

 タキシードなど皺になりやすい衣服を手早くクロークに吊す。足の踏み場もない程に荷物が広がっていく。汗ばんできた。こうしている時、携帯が鳴った。高校時代の仲間の岩尾君からだった。送り太鼓の横にいるという。続いて、沙織君からも入った。船内の軽食を食べにいく間もないままに、プロムナードデッキへ走り出る。小旗を振って大騒ぎしている船客の脇を走り抜け、二人を捜す。

P1000048_1 P1000028_3 セレモニーのステージとなる横で太鼓連が準備をしていた。その右手、横断幕の端にベージュのハンティング帽の岩尾君を見つけた。携帯で礼を言う。それから、10m程、右手に濃紺のリクルートスーツが沙織君だった。手渡せなかったと虎屋の袋を見せる。既に、我々は国外に出たことになる。 沙織君とは、就活の状況を携帯電話で15分ほど話すことになった。フィットネス教室のインストラクターだった高橋さんが見送り側にいた。今回は乗らないのだ。手には「か」「よ」と書いたボードを左右に大きく振っている。「加代」という名の後輩を船に送り込んだようだ。

P1000046P1000033 紙テープが配られた。岩尾君に投げようと試みたが、1本も届かないままに空を切った。桟橋側の見送り客にもテープが配られるものと思っていたが、いつまで経ってもテープ投げが得意な岩尾君は動かなかった。見送り客は、250人ほどだっただろうか。100日間の世界一周ではブラスバンドだったが、40日間では太鼓連というわけか。祭り太鼓は力強く叩かれていたが、単音で低重音のため、周りの音に掻き消されてしまい、なんとなく地味に感じた。

やがて、「輪になって踊ろう」の曲が流れ、ボンダンスが始まった。にっぽん丸独特の地響きだ。P1000056 リピーター達は、横一列になって踊り出した。桟橋にいた商船三井客船の30名ほどの制服組も踊り出した。初めての人は、何事が始まったのだろうと驚いていたが、ややあってから手拍子を打ち始めた。これを世界の寄港地を離岸する時に船上から踊ってきたのだ。不思議な興奮に包まれる時である。
 ドラが鳴って風船が舞い上がり、消防艇が放水をして出航は15時。緑の横浜大桟橋が遠ざかる。大村さん、中村さん、岩尾君、山本さん、見送り有り難う。そして岡田さん、花を有り難う。

 

   横浜ベイブリッジを過ぎた頃、船室に戻って、再び、荷物を入れ分ける。夕食前には収納してしまいたい。急いで動き回るがカミサンとぶつかってばかりだ。その理由が判った。これまでは右舷の船室だったが、今度は左舷で、しかも部屋のレイアウトも左右が反対のため、互いに動線が狂ったからだった。

 一段落したので、ルミックスで撮った写真をPCに保存する。87枚撮っていた。ズームが10倍を超えると、レンズフードで左右が蹴られることが判明した。

ドルフィンホールでのオリエンテーションには、カミサン独りで出て貰った。補助椅子まで用意されていたにも拘わらず、50名ほどしか出席していなかったという。リピーターが80%で、その内、世界一周クルーズのリピーターが50名だ、そうだ。あらためて聞き出したところ、船客の最高年齢91歳、平均年齢71歳。神戸から120名、横浜から245名、合計365名の満室で出航した。


船は、房総半島と大島の間を南下し始めた。岡田紀美子さんに「バラ」のお礼を電話したが、返ってきたのは「コノ番号ワ既ニ、使ワレテイマセン」だった。洋上からメールを打つことにする。

 夕食は2回制で2回目を選択してある。乗船客優先で満室になったためか、ペーパー・アーティストの広岡さんは乗船していない。レストランのエントランスは、花で飾られていた。案内されたのはセンターテーブル。フィリピンスタッフが、「萩原サマ、ワインオモチシマシタ」と名前で語りかけてくれる。嬉しい。昨年の世界一周でも一緒だった香川の病院の佐藤先生ご夫妻が我々のテーブルに案内されてきた。小笠原クルーズで菅井さんと一緒でしたよ、と言われた。今年は飛鳥2のオセアニアにも乗りましたという。義妹と一緒だったかもしれない。

 

P1000097

食後の2115分、メインホールでは、『オープニングショー』と題して、エンタティナーとスタッフ、それに各種の講師の紹介が行われた。航海日記をウエブに載せるのは水木俊也カメラマンさん。クルーズ・ツアー・コンサルジュは、内山さんに女性の牛山さんが加わった。「ウチ山」と「ウシ山」の名前に笑いが出た。ツアースタッフのコブちゃんこと藤川悟君は、ポンペイから乗船してくるそうだ。イベントスタッフの中でフィットネス担当者が、品田佳代子さんと紹介された。あの「か」「よ」さんだった。スタッフ紹介は45分で終わった。この後は、ダンスタイムとナイトシアターの時間だ。一旦部屋に戻り、今夜はシアターに行くことにした。有り難いことに、廊下を挟んだ先がシアターである。P1000136

映画は『ニューオリンズ』と船内新聞に書かれてあるが、多くの人が間違える。正確には『ニューオーリンズ』である。ビリー・ホリディとアーム・ストロング(サッチモ)が、ニューオーリンズからシカゴにかけて、ブルースを流行させた物語で、全編演奏シーンである。ニューオーリンズは、馬車が行き交う中を自家用自動車が走り出した時代。1947年の90分映画だ。「・・・・ニューオーリンズが懐かしい・・・」と歌うテーマ曲『ニューオーリンズ』を何度も聴かされて懐かしくなった。我々が寄港した翌年にハリケーン「カタリーナ」で大被害にあったクレオール辺りは、今どれほどに回復したのだろうか。

 部屋のNHKテレビは、中日が今日も二桁得点12:7で広島に勝ったと教えてくれた。幸先がいい。こうして、航海日誌を毎日パソコンで打つ日が始まった。既に午前1時を回っていた。今晩から、時刻改正となる。船内時計は午前2時になると自動的に30分進むようにセットされている。デジタルカメラの時刻を修正し、腕時計も直して横になった。

さあ、明日からは、毎朝9時にデッキゴルフもスタートするぞ。

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